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立命館を蹴って、東大を目指した話①(中学生時代)



来年、東大を受験します。



2020年3月、僕は東大受験宣言をした。






父はよくわからない大学、母は短大卒と、両親ともに決して高学歴といえる大学出身ではなかった。
しかし母は「将来苦労しないように」と、幼い頃から僕に対して異常なくらい勉強熱心だった。
七田式教室・公文・日能研・能開など、色んな塾に通わされた。
公文では毎年受賞するほどの成績を残し、日能研ではコースに在籍していた時期もあった。

だいぶ昔のことなので、なくしてしまったオブジェや賞状もある


DSは持っていたが、本格的に受験勉強を始めてからはほとんどやらなくなった。
小6のころは、一日12時間以上勉強していた。
学校がない日は朝9時に塾に行き、夜9時まで勉強する......そんな生活が当たり前になっていた。
齢12までの話である。




そして僕は大阪の共学中学でトップに君臨する、清風南海中学に合格した。
関西で中学受験したことのある人なら、知らない人はいないくらい有名な中高一貫の進学校だった。
第一志望だったこともあり、両親や親戚はとても喜んだ。

当時通っていた能開で貰ったメダル



積み重ねてきた努力が報われた



そう思った。


しかし、順風満帆に思えた僕の人生は、中学入学と同時に崩れることとなる。





【中1】



入学と同時に、僕はまったく勉強をしなくなった。
勉強が嫌いだったからしなかったわけではない。
勉強よりはるかに楽しいことを見つけてしまったのだ。



それはゲームだった。



僕はゲームに耽った。
毎日、学校に帰るやいなや自分の部屋に駆け込み、ベッドにダイブしてスマホ(時に3DSやPSP)を開いた。
食事と風呂以外の時間はぶっ通しでやっていた。
気づけばいつしか寝る時間も遅くなり、親にバレないように部屋の明かりを消して夜中までゲームをするようになった。
そして、それとともに、成績は低下の一途を辿っていった。

ブログを書くにあたって部屋を整理していると、奇跡的に中1の時の成績表だけ見つかった。
拡大してもらえればわかるが、赤点の数が異常に多い。
特に、1学期中間の理2の偏差値を見てほしい。
65.5ではない。


6.55である。


思わず三度見した。


「偏差値に6ってあるんや......」



だが、こんなにひどい成績をとっても僕の心に焦りは生じなかった。

「まぁ、本気出せばなんとかなるやろ!」

異常なくらいポジティブだった。
というより、脳に花が湧いていたのかもしれない。




【中2】



この頃になると友達も増え始め、授業中に雑談するようになった。
勉強したい周りの生徒からしたら、さぞ迷惑だっただろう。
進学校というのもあり、授業中は基本的に静かだった。



そして、補習に毎回呼ばれるようになった。
最初は成績が悪い友達とダラダラ居残りしていたが、その友達も少しずつ補習地獄から抜け出していった。
気づけば、「補習スタメン」のイメージがクラス中に浸透していた。



この学校には、三欠という制度が存在する。
3つ赤点をとると、クラブ活動禁止補習(科目による)などのペナルティが課せられるというものだ。
サッカーが好きだった僕は、入学当初はサッカー部に入ろうとしていた。
しかし、三欠地獄の沼から逃れることができず、結局一度も入部することはできなかった。





【中3】



クラスが変わる。


「中2の時仲良かったメンバー全員と、同じクラスになれたらええな〜」


しかし教室を見渡すと、そこにいたのは全然喋ったことのない人ばかりだった。
だが、それよりも不安だったのは担任だった。
新しい担任は中2の時の理科の教師で、HUNTER × HUNTERに出てくるモラウのような風貌をした、ガタイのいい男だった。

奴は好戦的だった。
あまりにも成績が悪かったというのもあるが、放課後に元素記号を何ページもノートに書くように強要してきたり、シャツの第一ボタンを留めていなかっただけで首を強く絞めてきたりなどなど、苦い思い出ばかりが蘇る。
奴のせいで化学が大っ嫌いになった。

奴は、僕が問題に答えられないのを知っていながら頻繁に当ててきた。
時には固まって、授業を中断することもあった。
だが、クラスメイトは優しい人ばかりで、僕のことを嫌がったりいじめたりなんてことはしなかった。
授業中に雑談し、教師の目を盗んでパズドラをする"どうしようもないやつ"だったにもかかわらずである。



そんな僕を見かねた母は、塾に通わせたが、そもそもやる気のない人間が勉強などするはずがなかった。
そして、成績は落ちるところまで落ち、高校進学は絶望的になっていた。
だが父は、ここまで崖っぷちでも一度も無理やり勉強させることはしなかった。

おそらく、僕は見捨てられていたんだと思う。




中3の1学期の期末テスト前に、担任からこう宣告された。



「次の期末悪かったら進級できひんぞ」





もう後がない状況に追い込まれた。
僕は流石に焦った。
だが、もう手遅れだった。
2年間まったく勉強をしてこなかったうえに、勉強のやり方もとうの昔に忘れてしまった人間が、たった1ヶ月で三欠を回避するなど無理な話だった。
結局、僕はこのテストで三欠をとってしまった。



この時点で進級は不可能になり、中学卒業と同時に強制退学が決定した。




7月には学校行事で、東大見学に行った。
人生で初めて行った大学だった。
今考えたら、すごい経験だと思う。
当時は大学にまったく興味がなかったので、赤門ラーメンがおいしかったことしか覚えていない。



この時は、まさか数年後に自分が東大を志すことになるとは夢にも思っていなかった。




休み時間や自習時間に頻繁に先生に呼び出されていたというのもあって、進級できないという噂は薄ら薄ら広まっていった。
周りの友達は察していたのか、進級のことについて特に何も言ってこなかった。
しかし中には、友達ではなかったが軽くバカにしてくるやつもいた。


そうこうしているうちに、一つの試練が僕に迫っていた。




高校受験である。


中学卒業と同時に退学させられる僕は、別の高校に進学しなければいけなかった。
高校について全然詳しくなかった僕は、母の勧めで近畿大学附属高校(偏差値63前後)を第一志望に選んだ。
おそらく、エスカレーター式で近大にそのまま上がれるという理由で選んだのだと思う。


それから、僕は大阪教育という塾に放り込まれた。
半年もなかったが、そこで今まで抜けていた部分を叩き込まれた。
周りの友達が中間・期末テストの勉強をしてる中、自分一人だけ高校受験の勉強をするのは、なんともいえない気分だった。



そして、時は流れ......

合格発表日当日。


恐る恐る自分の番号を確認した。






「あ、ない」



結果は不合格だった。
いくら学年最下位争いをしていたとはいえ、あくまでそれは大阪トップクラスの中学内での話。
正直、高校受験勉強を始めるまで名前すら聞いたことのなかった高校に落ちるとは思わなかった。
結局、大阪学芸高校(偏差値50ちょい)に進学することになった。
卒業式が終わると、卒アルの最後のページにたくさんメッセージを書いてもらった。

嬉しいような辛酸を嘗めるような思いで、僕は中学を後にした。
そして、ここから新しい生活が幕を開けることとなる。



次回第2話「高校生時代 前編」





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