気まずさの正体

気まずい。




上司との高速道路、一度訪れてしまった会話のない時間から抜け出せない車内。

取引先のイベントで、人が全然来ない時の持て余した時間の共有。

なんとなく顔は見たことがあるが、名前はわからない人と、一緒に乗り合わせた会社のエレベーターのなか。

あまり話さない親戚や、家族の知り合いと、不意に2人きりになった部屋。



やばい。ここから脱する方法がない。仮に何かしらで切り出せたとしても、その後に更なる沈黙がやってきて、いよいよ息苦しい状況に陥るような気がする。
しかもこの時、何故か時間の流れが異様に遅い。もうそろそろ針が進んでいるだろう、という仮定のもと、満を辞して時計を確認したときの絶望感が凄い。クロノスタシスって知ってる?と、心のきのこ帝国が脳内で歌い始めるのが聞こえたら、いよいよ末期である。


まだ、初対面で、もう二度と会わない可能性の高い人や、自分の好き嫌いで関わり合うかどうかを決めれる友人、趣味で関わる相手なら、好きなように接して構わないだろう。しかし、仕事関係や家族の知り合いなど、自分の意に反しても接し続ける必要がある人には、過剰に積極的なコミュニケーションを行うと、そういう人間だと思われて、後々しんどい思いをすることになる。


そうして、このような環境はやってくる。背後からいきなり刺されるような痛みは、ない。しかし、空気が薄くなっているような、呼吸のしづらさをじわじわと感じる。

気まずい。気まずすぎる。頭の中ではめちゃくちゃ早口で、気まずさを表現する言葉が巡っているのに、実際の空間といえば、圧倒的無音である。


ネットで気まずさを回避する方法を調べても、話題作りの方法や、質問のバリエーションが書かれているだけで、有益な情報が全く手に入らない。私たちに必要なのは、喋らずに気まずさを回避する方法であるからだ。

しかし私はあまりに気まずい経験をしすぎた結果、とうとうこの現象の回避方法を、発掘したのである。


それはずばり、気まずくない、と思うことである。
は、と思った人は、回避が必要な状況に陥った時、以下の文を心の中で読み上げてほしい。



気まずくない。むしろ、何が気まずいのだろう。これはただ、2個体の人間が、近しい場所に存在しているだけの空間である。それを無理矢理関わろうとするから、居心地の悪い思いをするのだ。ただ、自分の思考を巡らせていれば良い。もしも相手から言葉をかけられれば、受け答えしても良いだろう。だがそれまでは、相手の存在を、自分のパーソナルスペースから完全に排除し、自分ひとりの空間として過ごすのだ。

そうだ。いいぞ。苦しさからすーっと逃れていく感覚がしてくる。

(ちなみにこれを、万が一声に出して読み上げた場合、環境汚染が著しく巻き起こり、気まずい程度でダメージを受けている人間が、この劣悪な環境で生存できる保証はない。少なくとも、これを聞かれた相手と、今後良好な関係を築くのは困難を極めるであろう)


もともと激しい気まずさを感じていればいるほど、これを感じなくなるまでに、意識的なトレーニングが必要である。経験を積めば次第に、「え、これってもしかして気まずいんじゃ...」と思い始めた瞬間に、「あ、気まずくないんだった」と思い出せるようになる。
そもそも、気まずさは、私たちの頭の中にしかない感覚であることを、よく理解しておくことも重要である。気まずいと感じた瞬間に、心のひろゆきが、それってあなたの感想ですよね?と捲し立ててくれば、こっちのものである。


ただ、この道の玄人になりすぎると、「空気が読めない」とか、「何を考えているのかわからない」とか言われることもあるので、注意が必要である。

ということは逆に言えば、気まずさとは、空気を読もうとすることに、必死になった結果かもしれない。相手の気持ちを組もうとし、相手にとっても、より心地よい空間を提供しようと模索した努力の痕跡である。
気まずさを感じるあなたは、決して悪くない。人として、他人を思いやる感情を持ち合わせた、真人間である証拠なのだ。もはや、気まずさを感じる自分を、肯定すべきではないのだろうか。気まずさを感じる今こそ、自分自身を讃えるのだ。あなたも私も皆気まずいんだ。それって素敵なことじゃない、、!!!



と、いうようなことを500万回考えてようやく、目的地に着いた。
上司が車を降り、「おつかれ」と短く言う。
「お疲れ様です」と頭を下げた。



駐車場に車を停めて、帰る支度をする。

何故か、ここからの夜は短い。
コンビニエンスストアで、350mlの缶ビールを買っても、時計の針は止まらない。


それでも秋は夜長というから、金木犀の香りでも辿るとしよう。



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