『異文化理解』を読んで【基礎教養部】

今回、私が読んだ本は『異文化理解』です。

教員になって世間でいう底辺校で勤務するようになってから、異世界転生したような気分でいます。何もかもが自分の持っている文化と違うからです。本当にこのような世界があるんだというのが先に来て、ワクワクします。この異世界での異文化を理解してみようといったちょっとしたふざけで読んでみました。

以下に読んでいて気になった箇所を書いていこうと思います。

異文化に対して無理解であることは、外交的な摩擦をも引き起す可能性があります。

その例えとして、

日本の外交官宅で開催されたパーティで、その頃日本人は異文化理解についての意識があまりなかったので、豚肉料理も含めてさまざまな料理を出しました。ところが、イスラームの国の外交官がいて豚肉は食べないから、少しでも豚肉の混じった疑いのある料理には手を出さず、それはほとんど何も食べないことを意味しました。イスラーム国の外交官を招いたのに豚肉料理が出たということですでにここは非礼だということになってしまうわけです。つまり、ほかの国の外交官も、外交的な態度としてイスラームの方が食べないのなら自分も食べないということで、その夕食会がうまくいかなかったのです。この話の真偽のほどは定かではないのですが、よく聞かされた異文化を知らぬ日本の外交官の話で、当時の日本人の「異文化無理解」ぶりを示すエピソードだったのでしょう。

というのがありました。

たしかに、これは外交の場であるため、それはそうだろうとなると思います。しかし、この例を異文化理解の範疇で持ってくることは適切なのでしょうか?僕はそうだとは思えませんでした。

この場面だけについて言いたいことがあるかと言われれば、それも異文化理解なのでは?ということです。イスラーム国の人は豚肉を食べない。だからそこの外交官はその文化を持っているので食べない。ただそれだけのことでしょうということです。他の国の外交官は自国の文化に従って食べるか食べないかを決めればよく、他の国の外交官がどうしてようが関係がないはずです。もっといえば、ここで問題とされている日本の外交官も自身の文化に従ってもたなしたいとやっただけでしょう。

そこに ”外交的な態度” が入ってきたと単に引用したようなことになると普通であれば、なるはずですが、この文はそうではなさそうです。なぜなら、異文化を理解していれば、こうはならないと書いているからです。

本当にそうでしょうか?

文化の話になると、いかにして総体としての文化同士をうまく共存させるかという話になります。いわゆる多文化共生というやつです。

共生とはそもそも何でしょうか。漢字を見ると共に生きるという組み合わせなのが分かります。では、共に生きるモノは何でしょうか。それは、人間ではないでしょうか。

人間は同じ国や地域で育っていたとしても差異が生まれていきます。それは、一人ひとりが違った環境で育っていくからです。自分が育った特定の文化の中でその文化的意味を内面化していき、それが自分の意味空間を形成していきます。この意味空間が、個人が世界をどのように解釈するのか、経験にどのように意味付けしていくのかという枠組みを作り、個人のアイデンティティと密接に関係していきます。つまり、個人が社会的に構成されたものとしての自己を認識し、またそれを自己の一部として内面化するということです。これによって個人は自己の行動や感情を、文化的な枠組みを通して解釈し、自己と社会・文化システムとの関係を理解していきます。

だから、文化には同じ文化間だったとしても共通として持っているものとそうではないものが存在するのです。それでも生きているのだから、多文化はそもそも人間社会において至極当然のことなのではないでしょうか。

同じ地域、国、見た目をしているから、あまりそれを意識していなかっただけのことなのではないでしょうか。

新しい概念が生まれたわけではない。世界が広がって、前提とされるものが顕著になっただけにすぎないと思うわけです。


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