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ウズウズnote書きたい病

noteは記事を書いて1週間くらい経つと“またナニカ書きたいなぁ”とウズウズする気持ちになる。
今回はそのまま自然に着地点は見つけずに書き始めようと思う。

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先日友人と久しぶりに会って2か月間の近況報告をした。最後に会ってからもう2ヶ月!?と互いに驚くけれど、会うのは2025年初めてだからもうそんなになるのだ。
というか、もう2月が終わる。
今年も6分の1が終わる...?と恐る恐る口にする。

個人的な体感だけど、時間がとても速く過ぎその密度が薄いときは 「砂が掌から溢れるように無自覚に過ごしてしまった」 その結果の様な気がする。


円形のブランコ、仲間と一緒に漕ぐ
中央にみんなの脚が集まって歓声が上がった


『時間は一定に同じ速度で直線方向に流れていく』のでは無いのかも知れない

そう何となく感じたのは、自分の過去に対する見方が変わったときだった。
過去から、現在、未来、と一直線なのではなく、時が循環しているように感じることがある。
時期的には去年の秋くらいから、四つの季節が廻るように時間も循環している様な感覚を覚えた日があった。窓から庭の景色をぼんやりと見ていて、フトそれはある確信の様な強さで心に浮かんだ。今も読んでいる『百年の孤独』の中にもそんな記述があって驚いて思わず鉛筆で線を引いておいた。

時間は伸びたり縮んだりするし、前にしか進ま
ないなんてのも実は幻想かも知れない。

夏に2回目のヒプノセラピーを受け、自分の過去と向き合った体験も時間に対する捉え方を変化させるものだった。
ヒプノセラピーの続きを推敲し終わらせたいのだけど、喉に骨が引っ掛かってるような感覚がある。“トラウマ”について今ひとつ理解が追いつかないせいなのかも知れず、もう少しこの辺について洞察を深めてから書きたいと漠然と感じている。

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時間とは面積だ』とはある人の言葉だが深く納得がいった。
「未来に延びて行く横の長さ」と「その下に広がる深さ」この2つが掛け合わさって面積になる。
1日を無自覚に過ごさず、深くなるようにするには集中と今に居ることをよく見ること。
そういう感覚は読書をしている時に高まり、漫然とネットサーフィンやショート動画を視聴している時は限りなく薄まるみたいだ。
俗に言われる“時間を溶かす”感覚の中では、殆ど全くなにも残らないのに恐ろしいスピードで時間だけは過ぎて行く。
ネットサーフィンや動画の視聴がストレス解消になることもあるので、全てを否定しなくてもいいが、ある境界を超えると時間は溶け出して、そうするとけっこう激しく後悔することになる。
ストレス解消、気分転換のはずだった行為が、知らず知らずに別の大きなストレスを作り出すのでは本末転倒すぎる。

やらなければならない継続的な勉強を今年から再開したが、人間の脳は疲労するとまず最初に「飽きた」と感じるそうで、20分くらい経つと集中が切れて飽きて来る。それが脳が疲れたサインだと知り、最近は20分おきくらいに小さな休憩を挟み姿勢や場所を変えるようにしている。
そこにスクワットやストレッチをすると眠気も消え頭がスッキリする。家事もその合間に、また別の20分の枠で何度もやった方が1日のトータルでは色々できて捗ると分かった。
20分では細切れ過ぎるのでは?と最初は思ったがやってみると、とても密な深い時間になる気がしている。
割と重度な先延ばし症候群でもあったが、実際にその“やりたくない”ことが、どのくらいの時間がかかるものなのか?時間を測ってやってみた。
“やりたくなさ”からもっと時間がかかった気がしたが実際には想像の半分以下の時間で終わったり、終わりへの目安が付いてやり続けることに抵抗がなくなったことで最後までスルスル出来上がったりする。
「何時間もかかるだろう」というのは自分のネガティブな思い込みにすぎなかったと分かり、先延ばし症候群もとうとう治る方向に向きつつあるのだろうか。これまでの人生で、どのくらいの時間を“やらなければならないのにやらないでずっと気にし続ける”という究極的に無駄な時間を過ごしてきたのだろうか...。
それも自分なのであまり否定はしたくないけど、「これからはいい加減そういう時間は少なくするべき」
そうしみじみ思う。

料理も新しいレシピに挑戦している。
食べるのは好きで、料理もやれば美味しくできるけど自炊をずっと面倒くさいと思って生きてきた。
長女が夏から日本へ半年〜1年間留学予定で子供達と一緒に食卓を囲める時間はずっとは続かないんだな...とハッと目が覚めるような気持ちになった。健康に良くて美味しい料理を子供達に食べさせてあげたい。
面倒だと思い続けて、このままレパートリーも増やさないままじゃあアカン!と、遅まきながら思った次第。お料理の本だって日本ですでに何冊も購入済みなのに、積読にしていては何の肥やしにもならない...。
それで改心して料理本をちゃんと読んで付箋をして新しいメニューを日々開拓中である。

料理をする時間は瞑想している時間とよく似ていて、実はとても心地よい。
今まで面倒くさいが優っていたけど、ウンザリするのではなく“ちゃんと向き合って”丁寧に手を動かしてみるとなにかイイ感じがする。
自分と向き合うのは、いつも最初は反射的に怖い気がするんだけど「いま自分が居る時間」と向き合うという事が 自分がココニイル に繋がることなのだ...と少しだけだけど解った気がする。

2月になって40代最後の1年が始まったけれど、どうやら6分の1は無駄に過ぎた訳ではないみたいだ。

2ヶ月ぶりに美味しい料理を食べて
色々話した木曜日だった

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