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ある孤独

東京砂漠だなぁ...と思っていた頃があった。

十代の終わりから三年を過ごした岩手から上京してなかなか大都会、東京に馴染めなかった。
元々は地方都市出身のはずなのに、岩手の田舎で暮らした時間は三年とは思えない濃密さで、それはやはり十代最後から二十代初めにかけての多感な時期だったからだと思う。
その頃の三年というのは、とても長く深い時間だったのだ。

それから沢山の時間を経て 二人でいる孤独 を知った。

孤独を恐れるあまり、だから誰かを愛したりはしたくないと思ってきた。
それが、思いがけず全く質の異なる孤独と出会ってしまい心がザワザワと痛んだ。

「孤独」が持つイメージは、どこかノスタルジーや高潔さを感じさせる...と思っていたが“二人でいる孤独”の前では、そんな甘っちょろい感慨など吹き飛んだ。

それは一人の孤独よりも、もっと暗くザラついた感触で、そこでは浅い息しかできないような、荒れた土地の様な心像風景だった。
二人でいて、ハッキリとどうしようもなく自分は独りだと感じられた。

そして、その孤独は陰影がクッキリとしていた。

独りぼっちだから「孤独」ではなく、二人でいての断絶のようなそういう孤独が在ると知ったから、「人の温もり」や「人と人が一緒にいる」意味を、考え直すキッカケになった。



自分という人間の淵に立って、その淵を覗き込むのは己れ独りでしか出来ない。そして二人の孤独に怯えている時も決して出来ないものなのだと思う。

誰かを利用し孤独を紛らわせようとすると、個の中で淵はより大きく暗い口を開けて迫って来る。
怖いけれど、その暗い淵を覗き込んでみてやっと知れるものもあり、そうして人は独りで立てる様になるのかもしれない。

人間はいつも自分というものを知りたいと願っている生き物だなぁ...と思う。そして自分を知ることが、他者を知ることにも繋がる。


「自分が今感じた感情は、もうとっくに誰かがどこかで感じたものだ」

と気がついたことがあった。

輝くような喜びも、眩い幸福感も、自分が消えてしまいそうになる哀しみも絶望感も、皆がそれぞれ自分だけの独立した感情の様に感じるが、それらは共有され続けて来たものなのだろう。

少し話が逸れるかも知れないが、
十年以上昔の深夜、長女の授乳をしていた時のこと。
静かで暗い寝床に座って、乳飲み子を抱いていると世界には自分たちだけしかいない気がした。

寂しくて孤独だった。

既に「産後うつ」になっていて、夜中の授乳中に涙が止まらないこともあった。

その時にフッと、
世界中にどれほどの女がこうやってたった今、独り授乳しているのだろう...?という想像が浮かんできた。
きっとこの瞬間、誰かが世界の何処かで全く同じことを考えている気がした。

目に見えないだけで、無数に存在する彼女らの気配を感じた。
その時から、夜中の授乳が寂しいとは思わなくなった。

心の奥深くに踏み込むことは自分自身にしかできない。

分け入って、そのもっともっと奥へと潜ってみたいと思う事がある。

同時に他者と何かを共有したいとも願っている。
自分が人生の中で感じた想いや、その時にこみ上げた感情や考え、何か普遍的なものを。

だから私はnoteに書きたいと思うのか...と。
自分に起こったことを書くことで、共有できる感情や想いを炙り出してみたい。

遺伝的に環境的に時代的に異なっても、そして生きる場所が違っていても、互いに共通するものがあるのではないか?

あるとすれば、それは何なのだろう?

何に心が揺れるのか、どのように心に響き、ひとは動かされるのか。

そこに在る人間の核を見てみたい。
ひとは複雑で多面的で謎多きものだから、だから惹かれる。

当人も知らない深い深い穴が心にはあって、そしてその穴のずっとずっと奥の深い所で、ひとは他の人々と、世界と、繋がっている様な気がする。

だからきっと、真の孤独なんて無いのかも知れない。

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