「街道をゆく」by司馬遼太郎、で沖縄・先島の旅から北海道の諸道へ
今では休刊となってしまった週刊朝日、女子大生シリーズの表紙や似顔絵塾とともに長い間連載されていた司馬遼太郎の「街道をゆく」が人気連載コンテンツだった。
連載後の今でも文庫本が新装版として書店に並んでいるのを目にする。
ふた昔前にはカラー写真満載のムック本としても毎週発売されていた(のが今やプレミア価格で売買も・・・・)
シリーズの6巻目は沖縄、「先島をゆく」を手に入れたのは旅行ガイドブックなどが並ぶ書店の一画。読み始めると、なぜかやめられなくなる司馬流儀の話の展開がおもしろい。
その観察力と洞察力、帰宅してからの綿密なリサーチも加わって、凡人では見過ごしがちな旅のエッセンスを垣間見せてくれる。
沖縄本島から石垣、西表、竹富島への旅・・・・・・
何といってもこの文章が最初に誌面を飾ったのは今から50年も前
まだ沖縄では返還前の右側通行、左ハンドルの時代。けれどやっぱり今でも尾を引く戦時中の沖縄の激戦を抜きには語れない。数回の渡航を経ても司馬さんの脳裏には戦争と本土との格差、差別といったワードが去来する。
戦禍が残る本島を後に石垣島に渡ると状況は一変する。
戦果を逃れ、というより攻撃の対象になっていなかったこの島もまた沖縄。
そこで沖縄の歴史を振り返り、この諸島を支配したのは日本人由来の王朝なのか、それとも台湾由来なのか?独特の切り口で日本由来の証拠固めを進めてゆく過程が圧巻。邪馬台国以来の日本の歴史とは隔絶した素朴な歴史がいつどのようにして本土並みになったのか?読み進めると興味はますます尽きなくなる。
竹富島はサンゴでできた島、だから耕作には適さない。雨が降っても水たまりはできず、波打ち際の砂のように水分を含むだけ・・・・・知らなかった事実をありありと伝えてくれる筆致も、半世紀を経て未だ色褪せない、隣で司馬さんが一人呟いている声が聞こえてきそう。
読み終えてから本部町の沖合8kmに浮かぶ伊江島に渡ってみた。この島には3本の滑走路らしきものがGoogleマップなどで確認出来る。これが島の命運を大きく左右していたとは!
戦争末期の昭和19年、沖縄を狙う米軍の空爆が始まった。沖縄の住民が戦争を身近に迫る危機として捉え始めたのもこの頃だったとか。狙いは大地の上に広がる平坦な土地。まず日本軍が滑走路を整備し、それに目をつけた米軍が奪還を図る。終戦の年の4月には本格的な戦火がまずこの伊江島を包む。日本軍兵士と命運を共にした島のサポート住民らに多大な犠牲を強いた末、伊江島は米軍の手に落ちる。沖縄陥落の2ヶ月前のことだった。
司馬先生がこの島を訪れていたならばなんと書き残したであろうか?・・・・・
・・・・・・さて、ところ変わって北海道編「北海道の諸道」
まずは函館、とくれば西南戦争あたりの司馬先生お得意の守備範囲
中でも気になったのは江差の海に沈んだ江戸幕府の大型帆船(オランダで建造・軍艦;全長72mの)開陽丸の行く方。
現在では復元されたレプリカが江差の港のシンボルとして浮かんでいるが、当時は行く方知れずで正確な沈没地点もわからなかった。司馬先生もここに興味をお持ちのようで、開陽丸探しが始まります。
札幌に足を延ばせば開拓当時の歴史発掘に奔走。不毛の大地が如何にしてグルメの生産地となり得たのか?先人たちの苦労を地名や史実、長老たちの証言などから読み解いていきます。
北海道に多くみられる本州由来の地名、そこには歴史的な結びつきや移住をめぐる様々な物語が見え隠れします。不毛の大地を切り開いて生産性の高い土地に仕上げるまでにはどんな先人たちの苦労があったのか?
この次北海道を旅する際には、また違った視点で北の大地が見えてきそうです。
それより何より真っ先に江差に足を伸ばして開陽丸を見学するのがさしあたっての目標か???