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もう一度、「命を守ること」を、本気で考えてほしい、と思います。

 コロナ禍も3年目になり、そろそろ対策の緩和が、表立って話題になるようになった。

 日常的なことに関して、特にマスク着用に関しては、議論されているようだ。

 もう少し広く言えば、「水際対策」の緩和も進むようだ。

 社会の維持を考えたら、当然のことだと思う。

死者数3万人

今年に入ってオミクロン株の流行による感染者急増に伴い、高齢者を中心に死者数は1万1千人余り増えている。(2022年5月13日)

  その一方で新型コロナウイルス感染による死者数は増えていき、特に今年(2022年)に入ってからは、急増したと言っていい時期があった。そして、3万人を超えたのは、大変なことではないかと改めて思う。


 この放送があった2月頃は、1日に100人の死者が出ていた頃だったけど、森永卓郎氏の推測によれば、高齢者や持病がある人が亡くなることも、ある程度はやむなし、と判断した人がいるのではないか、という話をしていた。

 もちろん、本当の意味で根拠があることではないけれど、という前提はあるものの、それは財務省ではないか。何しろ予算を使いたくないから、緊急事態宣言も出したくないし、3回目のワクチン接種も進まないし、その上で、今後の高齢者負担も減らしたいという思惑があるのではないか、という話題にもなっていた。

 リスナーとしては、どこかで、そんな見殺しのようなことは露骨にしないのではないか、と思いたかった。

原則入院見直し

 ただ、2022年4月に、こうしたニュースが流れた。
 高齢者が新型コロナウイルスに感染した際、急激な重症化に備えて「原則入院」だったこれまでの「原則を見直す」という話だった。

 当初は、治療方法が進化したため、「原則入院」をしなくても、軽症かどうかの見極めができるようになったので、入院をしなくても、急激な重症化から死亡という事例を減らせるから、という前提があるのだと思った。

 だが、少なくとも、報道の内容では、そういうことではないようだった。その「見直し」の根拠の一つとして挙げられていたのが「フレイル」だった。

 高齢者が新型コロナ感染で入院した場合、数日間であっても、身体機能や認知機能を低下させるリスクがある。コロナ病棟の看護師が介助に不慣れだったり、日々の歩行訓練などをできなかったりするためだ。第6波では、入院後のフレイル進行により、コロナの病状が収まった後、介護をより必要とする別の施設に移る高齢者が目立った。

 確かに年齢が高くなるほど、ほんの数日の入院で、さまざまな機能が衰えるのは自然だと思う。フレイルは、比較的新しい概念で、要介護状態と、健康であることの中間と言われているのだけど、それは老化とどう違うのか。さらに、まだ私自身も、家族の介護をしていた時に聞いた言葉だったけれど、理解力の不足のせいか、その概念の必要性がわからなかった。

 ただ、もしも、新型コロナウイルスに感染し、治療のための入院によりフレイルになったとしても、その後、退院し体力が回復し、本人が望んで適切なリハビリなどに取り組めば、身体機能が再び回復する可能性も十分にあるはずだと思う。

 フレイルを防ぐため、と入院せず、新型コロナウイルス感染により亡くなるとすれば、それは本末転倒にしか思えなかった。

施設の状況

 この記事は2022年2月のものだが、とても厳しい高齢者施設の状況も書かれている。

 医療逼迫の現状を踏まえ、国は高齢者施設内での療養を推奨しており、陽性の職員が陽性の入所者をみる「陽陽介護」が発生。鹿野院長は「施設は救急要請しづらい状況で、弱っていく入所者の心臓が止まり慌てて救急車を呼んでも手遅れ。先進国の医療とは思えない地獄絵図だ」と話す。

 もしも「原則入院の見直し」が、そのまま認められたとすれば、その後、感染者数が減少すれば厳しさは減ったとしても、基本的には、この状況がそれほど変わらない可能性もある。

国は医療の逼迫(ひっぱく)をしのぐため施設内療養を進めてきたが、東京都が公表したデータをもとに昨年夏の第5波のピーク時と比較すると、死者に占める施設内療養死の割合が0.4%から15.8%へと上昇していた。

 この3月の記事を読むと、「施設内療養」として、入院をしなかったために、高齢者の死者数は増えたとも思える。これは、助けられたのに助けられなかった命が含まれている可能性はないだろうか。

第6波

 今も、残念ながら毎日のようにコロナ感染による死者が出てしまっている。

 新型コロナウイルスの変異型「オミクロン型」の感染が拡大する「第6波」の死者数が4000人を上回るとの試算をまとめた。

 これは、2月の試算だったのだが、それから3ヶ月にはその試算を上回る1万人の方が亡くなっている。

年代別で見ると、第5波(昨年6月30日~10月5日)では、80歳代以上の死者が48%だったのに対し、第6波(今年1月5日~3月29日)では73%に上昇していた。聖マリアンナ医科大の国島広之教授(感染症学)は、「第6波では、高齢者が感染し、持病悪化や体力低下で亡くなるケースも増えた。重症化を防ぐため、特に高齢者や基礎疾患のある人は4回目の接種を速やかに受けてほしい」と話している。

 試算を大幅に上回ったことが、それほどの問題視もされなかったのは、高齢者が中心だったからだろうか、と邪推したくなるし、「原則入院の見直し」のために、助かったはずの命が助けられなかった、という事例は、どれくらいあったのか、と考えたくなる。

 当初の試算が大幅に違った理由は、研究、調査、分析されたのだろうか。

高齢者の命

 個人的には、介護は必要だったけれど、103歳まで生きてくれた家族がいたせいか、もしくは今も周囲に年齢的には「高齢者」といっていい人たち(気持ちまで高齢者の人は滅多にいない気がする)が多いせいなのか、80歳でも、90歳以上でも、コロナ感染で亡くなっていいとは思えない。感染したら入院して、できるだけ治療して治ってほしい、と思っている。

 その時点から、さらに5年、もしくは10年生きる可能性があるのに、とても苦しい思いをしながら亡くなっていくとも言われるし、治療によって治る可能性があるのならば、その命も救うべきだと思う。高齢者で、すでに長生きしていても、今生きていて、さらに生きられる可能性がある命を、大事にしようとしない先進国があるとは思えない。

 長く生きたから、切り捨てるような方法が当たり前になってしまったら、これから先、病気になったから、弱ったから、と切り捨てられる人が多くなるきっかけになりかねない。

 今後、また新たな感染症が流行する可能性を考えても、救える命を救えることと、社会を継続させること両立させるような努力や工夫をしていかないと、今後も、また「切り捨て」のような対策が取られてしまうことになってしまうかもしれない。

マイルドな優生思想

 ただ、高齢者でも救うべきではないか、といった自然に思えることが、もしかしたら少数派になってしまっているのかのしれない、という怖さもある。

 それは、新自由主義的な思想が、かなり社会に根付いたことをあらわすように、「自己責任論」は相変わらず勢いが衰えていないばかりか、「マイルドな優生思想」が、実は多数派になっているのではないかと思うようになったからだ。

 この「マイルドな優生思想」という言葉を知ったのは、2021年の夏、インフルエンサーと言われる人物がYouTubeで「差別発言」を行ったことに関して、精神科医・斎藤環氏の発言によってだった。

 この言葉に、残念だけど、とても納得してしまった記憶がある。

もし、自分だったら

「もし自分だったら」という言葉を用いて、いとも簡単に物事を判断し、結論を下してしまえる人たちもいることです。
 たとえば、次のようなことも本当によく口にされたり、書かれたりします。
「自分なら、延命治療をしてまで生きていたくない」
「もし認知症になって人に迷惑をかけるくらいなら、自分は絶対に死を選ぶ」
「もし事故で半身不随になったら、自分は安楽死を希望する」

 こうした発言が「マイルドな優生思想」につながるかも、という言われ方はあまりされないかもしれない。そして、こうした発言の中に「コロナに感染したら、治療を望まない」という項目が、今ならば加えられてもおかしくない。

 ただ、こうした発言は、妙に聞こえるかもしれないけれど、健康である自分が、(未来の)「障害を持った自分」や「老いて衰えた自分」を、死に至らしめようとしている発言であることは間違いないと思う。

 今の健康な自分と、(未来の)「障害を持った自分」や「高齢者である自分」が、同じ思いである保証もないのに、もし、こういうことが法制化されたり、文書化され、安楽死が義務化のようになれば、それは、「優生思想」に基づいた行為になるのではないか。

 それでも、こうした「もし自分だったら」という発言をする方々を責める気もないし、「優生思想」と指摘しても反発をされるだけと思われるし、自分でも、こうした思想が全くないかと言われると自信はない。

 それでも、個人的だったらまだしも、医療関係者や、著名人が、公的な場で、こうした「もし自分だったら」といった言葉を語るとすれば、それは「マイルドな優生思想」を主張している、という指摘がされてもいいのではないか、と思っている。

 直接的でないとしても、こうした「思想」が広く行き渡るほど、実際に、今の時点で「延命治療が必要な人」や「認知症の人」や「半身不随の人」や「コロナ感染をした高齢者」に対して、周囲からの柔らかい「優生思想」に囲まれる可能性はある。もしくは、自分の中の「内面化されたマイルドな優生思想」によって苦しめられることもあるはずだ。

「経験した後」の言葉

 でもACPの日本の愛称として使われている「人生会議」という言葉は、私にはあまりしっくりきません。
 「会議」になると、どうしても「会」というか「数」の圧力がありそうです。それでなくても日本人は、まわりの空気を読んで忖度しがち。主体であるはず「私」は、つい気を遣ってしまい、数の圧力にのみ込まれてしまうのではないでしょうか。
(中略)
 その際、数の圧力を避け、本人の意思で変更できるようにしてほしい。延命治療を拒否したいと思っていても、もし長い間、病床についており、そう痛みもなくなんとなく生きている感じだとしたら、ひょっとしたら「明日も生きたいなぁ」と思うかもしれません。だから治療をどうするかについては、繰り返し聞いてほしいのです。それも、数の圧力がないところで、一対一で聞いてほしいと思います。
 連れ合いが3年2か月と長きにわたり、寝たきりになって闘病した経験を通して、私はそう思うようになりました。 

 この引用した最後の部分に、著者自身の「連れ合い」の経験を通して、そう思うようになった、という表現があるので、それ以前は、もしかしたら、「人生会議」に関しても、もう少し肯定的な見方をしていた可能性はある。

 介護保険の成立に関わった専門家であり、自身も80歳を超えた「高齢者」でありながらも、こうして「経験をした後」でないと、分からないことは多いと思わせる。そして、この「経験の後」の言葉は、とても丁寧で繊細な表現だと思うし、納得ができると思う。

 単純に比較してはいけないのだけど、「自己責任論」の代表的論客の一人である曽野綾子氏も、「経験の後」に変化したと言われている。

 自己責任論を振りかざしてきた代表的論客として作家の曽野綾子の名を挙げ、"高齢者や自己責任の病気で保険を使う人間のせいで、この国はそのうち医療費で破綻する"との主張で人々の不安と怒りを煽ってきたことを先日紹介した。
 曽野の独占手記を読むと、自宅にケアマネージャーが訪れるなどしていることが窺えるが、そのように夫の介護を決意したいま、曽野は以前に発表した"ある小説"について、こう振り返るのだ。
〈この危険で破壊的な小説の内容は、当時あくまで空想上のことであった。むしろ現在だったら、私はこの作品を書けなかっただろう〉
その小説とは、曽野が「小説新潮」(新潮社)2014年1月号に発表した「二〇五〇年」という短編のこと。「いまなら書けない」というこの小説、じつは高齢者の自己責任を煎じ詰めた内容なのだ。

 2014年には、曽野綾子氏は、80歳を超えている。夫・三浦朱門氏が介護が必要になったときには、大変なのは間違いなく、だから、これまで自身が主張してきた「自己責任論」を徹底するであれば、介護サービスを使うべきではない、とは(どんな相手であっても)言えないけれど、曽野氏でさえ、介護の経験の後であれば、自身の作品も違って感じるというようなことが起こる。

 だから、現在、“衰えたり、老いたりしたら、自分で始末をつけるべき”といった思想を持っている人でも、高齢者と身近に暮らすようなことがあったり、関わりができたり、自分自身が老いたりした「経験の後」は、変化する可能性がある。

 同様に、今の時点では、『コロナ感染した高齢者は入院をしないで自宅や地域で療養をするべき』と主張している人であっても、さまざまな「経験の後」では、考えが変わることは十分にあり得るのではないか、と思っている。

100歳の回復

 この本は、セルビア在住の著者が、自身も新型コロナウイルスに感染し、幸いにも回復し、その経過の途中で、コロナ禍での心が温まるニュースに接し、それを友人に転送し、笑いや感動を共有することが「孤独な隔離生活中の喜びであり、生きる希望」だった経験がもとになって、執筆したという。

 そして、最初に紹介されているのが高齢者がコロナ感染から回復したエピソードだった。

「今日、100歳になる第二次大戦の退役軍人のロイド・フォーク氏は、ヘンライコ・ドクターズ病院に58日間滞在した後、コロナウイルスを打ち負かしました。フォーク氏は、最初に新型コロナに感染した患者のひとりとして3月24日に入院しました。数週間前に74歳の妻をウイルスで失ったにもかかわらず、フォーク氏は強さを保ち続け、困難に立ち向かい、新型コロナウイルスとの闘いを生き延びました。……」
 
「ヘンライコ・バーハム・リトリート・ドクターズ・病院」のフェイスブック(2020年7月9日)

  その退院の日には、病院の医療関係者に見送られた。

「フォークスさんに敬礼します。あなたの勇気と回復力は、我われ医療関係者全員を激励してくれました」

 高齢者が生きようとする姿は、思った以上に力強く、時々底知れない命の力のようなものを、100歳を超えた義母を介護している途中でも感じたことがあった。

 今も、毎日のように新型コロナウイルスによって亡くなっていく人がいる。

 その死亡者には、高齢者が多いことを、今は淡々と報道されているような印象になっている。4月に、高齢者の「原則入院見直し」が言われるようになってから、その後、どうなったのかは分からないままなので、亡くなった高齢者の中には、(政策として)治療体制をもう少し整えることをしていれば、十分に回復し、その後も生きていける高齢者がいたのではないか、という気持ちになってしまう。

マスクの配布

 今、新型コロナウイルスに関して、対策の緩和については語られるようになってきたけれど、感染した高齢者をどうすれば以前よりも回復させることができるのか、という議論を、自分が無知なせいもあって、あまり聞いたことがない。


 コロナ禍3年目になるのだから、そうした治療方法も予防対策も更新されてきたはずなのだけど、ワクチン接種以外には、すでにあまり積極的に語られることが少なくなっているように思う。

 2022年のゴールデンウィークの後の感染も何とか落ち着きそうだけど、その要因については、昨年と同じく「なぜか」おさまっている、という言葉以外に、合理的な説明を聞いた記憶もない。

 災害時には「命を守る行動を」と繰り返されるようになってきているのだから、今も、新型コロナウイルスから、国民(高齢者も含む)の「命を守る行動」を、改めて政策レベルで進めてもいいのではないだろうか。それは今後、また新しいウイルスが出てきたときに、助けられる命を助けられるためにも、考えていいことのようにも思う。

 ただ、そのことについては、内閣が変わっても、何か有効な対策がとられた、という印象はない。


 今年の4月下旬には、冒頭に紹介した同じラジオ番組のコーナーで、こんな話も聞いた。

 今、感染して亡くなっているのは、高齢者。基礎疾患を持つ人が多い。だから、その人たちに自衛してもらうためにマスクを配る。それも、N95マスクという防御力の強いタイプを配布する。現在では、安くて、20枚で五千円。

 高齢者が約3600万人。基礎疾患を持つ人たちが、約1400万人。
 この人たちに、このマスクを配る。
 予算は、約2500億円。アベノマスクは450億と言われているけれど、それでも、予備費の20分の1。そうすれば、自分の身を守れる確率が高くなる。それをキシダマスクと名付けてもいいから、配るのはどうだろう、と森永卓郎氏が提案していた。


 あのIOCのバッハ会長がしていたのが、確かN95マスクで、少なくとも布マスクや、普段使っているような不織布のマスクよりも、ウイルス感染への防御力は強いはずだ。

 このマスク配布を、政策として実行してくれれば、少なくとも「命を守る」努力をしていることは伝わるので、政権への信頼感は増すと思う。

 それと共に、もう一度、病床の増床など、現在の新型コロナウイルス感染者の命(主に高齢者や持病を持つ人)を守るために、さらには、新しく感染症がやってきたときにも対応できるようなシステム構築を、今からでも、地道に進めるべきだと思っている。




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