読書感想 『チェルノブイリの祈り』 「想像の先の言葉/人類必読の書」
この作家のことを知ったのは、毎年のように「村上春樹がノーベル文学賞をとるか?」と今よりも熱心に語られていた頃で、そうなると、自然に、その年の受賞者のことを知ることができる。
2015年のノーベル賞受賞者は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチだった(今もとっさには名前が言えない)。文学賞なのに、初めてジャーナリストが受賞した。その受賞理由が、「我々の時代における苦難と勇気の記念碑と言える多声的な叙述に対して」だと知ったが、それだけだとピンとこない。
だが、その作品を読むと、「多声的」などという冷静な表現でおさまらず、確かに、いろいろな人間がいて、その現実とは思えないような苦難について、言葉にしようとしている過程も含めて形にしてくれているように感じ、ジャーナリストとして初めてノーベル文学賞を受賞したのも、当然のように感じられてくる。
「完全版 チェルノブイリの祈り」 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ
この作品の、「完全版」でないものは、以前に読んだ。「完全版」が日本で出版されたのが、2021年だった。つまり、20年、書き続けているといっていい。この本のテーマは、もちろん「チェルノブイリ」の事故のことだ。それは、ベラルーシ人である筆者にとっては、地元の出来事でもあった。
一九八六年四月二六日午前一時二三分五八秒 一連の爆発によってベラルーシ国境近くにあるチェルノブイリ原子力発電所四号機の原子炉と建屋が崩壊した。チェルノブイリの惨事は科学技術がもたらした二〇世紀最大の惨事となった。 (本書「歴史的情報」より)
そして、最初の「チェルノブイリの祈り」は、その事故から約10年後に形になっているが、その内容を読むと、言葉にできることではないようなことを、かろうじて人に伝えられるようになるまでには、相当な時間が必要なのではないか。と思えるし、どれだけ年月が経っても、その時のことは、その本人にとっては、ずっと現在ではないか、と想像するくらいしかできない。
この書籍には、よくこれだけ聞けたと思うほどの、多様な当事者の約100人の言葉がある。
圧倒的な現実
この本の冒頭は、「孤独な人間の声」というタイトルがついている証言から始まっている。
原子炉爆発直後の消火活動にあたり、致死量の四倍ものレントゲンを浴びてしまった消防士、ワシーリイ・イグナチェンコの妻、リュドミーラ・イグナチェンコの言葉である。旧版でも新版でも、このリュドミーラの証言が著者自身の証言より先に置かれている。その場所を絶対に動かせないほど、圧倒的な「個人」の話なのだ。医者に隠れ、看護師に頼み込んで、「あれはもう、人間でなく原子炉よ」と呼ばれる夫に、夜昼となく付き添う。(本書「解説 梨本香歩」より)
この証言は、とても現実とは思えないような凄まじい描写も多い。だから、過去にショッキングな出来事を経験して、それがまだ癒えていない人や、そうした表現が苦手な人には、積極的に読むことを勧められないが、それ以外の人にとっては、この冒頭の証言だけでも、読んで欲しいと強く思える言葉だ。
最初は、少し柔らかく深い表現から始まる。
リュドミーラ・イグナチェンコ
消防士、故ワシーリイ・イグナチェンコの妻
なにをお話しすればいいのかわかりません……。死について?それとも愛について?それとも、これはおなじことなんでしょうか……。なんについて?
……わたしたちは結婚したばかりでした。手をつないで道を歩いていたんです、お店に行く時もそう。いつもいっしょ。「愛してる」っていってた。
そんな時期に突然起こる「チェルノブイリ」の原発事故。消防士として消火活動に出かける夫。そのあとは被曝、隔離、それも理由が十分にされないまま、事態が暴力的に進んでいく。
放射能のことはだれもいわなかった。ガスマスクをしていたのは軍人だけ……。
ただ、この証言者であるリュドミーラは、様々な制止を踏み越えるように、夫のそばにい続けようとする。それは、愛情をもとにした、ただシンプルなことのはずだ。だけど、それが「異常な行動」に見えるのは、周囲で起こっていることが、とんでもなく「異常なこと」だからだと思う。
「わすれてはいけませんよ。あなたの前にいるのはもうご主人じゃない、愛する人じゃないんです。汚染濃度の高い放射性物体なんですよ。あなた、自殺したいわけじゃないんでしょ!しゃんとしなさい!」。わたしは気がふれたようになっていました。「愛してるわ、愛してるわ」。あのひとが眠っている、わたしはささやく「愛してるわ」。病院の中庭を歩きながら「愛してるわ」。おまるを運びながら「愛してるわ」。以前のふたりのくらしを思いだしていました。消防署の寮での……。
それから亡くなるまでのことも、かなり詳細に語られている。それは、とても現実とは思えないような出来事だけど、原発事故が引き起こしたことなのは間違いない。そして、この証言の最後は、こんな言葉で終わる。
彼らは死んでいきますが、だれも彼らの話を真剣に聞いた人はいない。わたしたちが経験したことや……見たことについて……。死について、人びとは耳を傾けるのをいやがる。恐ろしいことについて……。
でも、あなたにお話ししたのは愛について……。わたしがどんなふうに愛していたかということです……。
多声的な叙述
老若男女。そして、様々な仕事や役割。著者は、本当に多様な人たちの声を、聞いている。
約100人。中には、名前を名乗らなかったり、ソヴィエト政権擁護者だと明言したり、ジャーナリストは嫌いだと拒否的だったり、それでも、よくこれだけの話を聞けた、という驚きはあるし、私自身が、全部を克明に読めなかったのは、あまりにも膨大で、圧倒されて、恥ずかしながら、自分が受け止めきれる能力が足りないせいもある。
多声的、というのは、ただいろいろな人の声を集めました、というよりは、全く違う人たちが、チェルノブイリ原発事故という現実に対して、その体験の質が、想像以上に違うことも突きつけられて、イメージとしては、読んでいて、大勢の人に囲まれていくような気持ちにもなる。
ニコライ・フォーミチ・カルーギン 父親
ぼくは証言したい。ぼくの娘が死んだのは、チェルノブイリのせいなんだと。ところが、ぼくたちに望まれているのは、黙っていることなんです。科学ではまだ証明されていない、データバンクがない、数百年待たなくちゃならない、といって。しかし、ぼくの、人間の命は……もっと短い……そんな先までもたない。記録してください。せめてあなただけでも記録してください。娘の名前は、カチューシャ……。カチューシャちゃん……。七歳で死んだと……。
セルゲイ・グーリン 映画カメラマン 「脱毛症」ということばを子どもたちは早くから知っています。多くの子どもがハゲているから。髪の毛がない。まゆ、まつげがない。みんな慣れている。
どんな声で、こうした言葉が語られているのかは、読者には分からない。だけど、どの言葉も、間違いなく、感情に乗せて語られているし、こうした思いも含めて、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが聞いて、記録してくれなかったら、ただ本人以外には誰にも知られずに、消えていったことだと思うと、怖ささえ感じる。
貴重な証言。といった言葉には、おさまらない圧倒的なものを集めてきた著者に、どれだけの負荷がかかっているのかは想像するしかないが、だけど、聞かないと、そのまま歴史の底へ消えてしまう、という焦燥感が、その力の一つになっているのではないか、とも思う。
厳しい現実を描写している部分も少なくないので、過去にそうした経験がある方や、ショッキングな場面が苦手な方は、読むのを避けた方がいいと思いますが、それ以外の方にとっては、人類必読の作品だと思っています。
(他にもいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただけると、嬉しいです)。