とても僭越ですが、『全ての「役名」を「木村拓哉」にすること』を、提案したいと思います。
2021年の夏から秋にかけて、映画の宣伝のため、木村拓哉が主演するドラマの再放送が続いた。さらには、そのドラマをもとにした映画の放送もしていた。
木村拓哉の変わらなさ
再放送のドラマを録画して、毎日のように、妻と一緒に見ながら、お茶をして、楽しい時間を過ごせた。ドラマの「ヒーロー」は、第1期と、第2期の両方を続けて放送していたが、実際には、その間に13年の時間が流れている。
もちろん、主演の木村拓哉は、その分、年齢を重ねているものの、基本的には、その姿は変わらなかったし、ドラマも、変わらないことを前提として、制作されているように見えた。
視聴者として当たり前のように見ていたけれど、この「変わらなさ」は、改めてすごいのではないか、と思い、さらには、ドラマも本当にオーソドックスで、主人公が主人公らしい活躍をして、1話完結で、スッキリと終わる作りで、見ていて、安心できた。
あと何十年かたって、高齢者の施設の中では、テレビがあるかどうかは分からないけれど、この「ヒーロー」は、そこで何度も流されるような作品になるのかもしれないと思ったのは、主人公が「木村拓哉」だったからだ。おそらく、これから、どれだけ時間がたっても、「木村拓哉」を見ている時は、自分なりの「その時代」を思い出せる存在だと思う。
完璧な「木村拓哉」
ドラマの再放送だけでなく、木村拓哉は、テレビのバラエティにもひんぱんに出ていた。そして、その姿や立居振る舞いだけでなく、周囲の芸能人の「木村拓哉の語り方」も、随分と前から同様だった。
木村拓哉氏は、一歩でも表に出ると、ずっと「キムタク」としての「木村拓哉」を完璧に演じているようだった。
再放送を毎日のように見て、バラエティで今の木村拓哉の姿も見かけ、さらに、これまでのドラマのことも思い出し、考え、そして、唐突に思った。
木村拓哉氏は、これから先、ドラマや映画に出演する時は、その役名もすべて「木村拓哉」にして、その上で、そのつどに「違う人間」を演じていってほしい。
いつもキムタク
アイドルだった木村拓哉がドラマに出始めて、そして、何本も主演を続けている頃、「いつもキムタク」という批判を、どこからともなく聞くこともあった。
それは、いつも同じに見える、といった「悪口」でもあったのだけど、生身の人間である限り、その見た目から、全く違う人間になるのは難しい。
「役作り」のために、体重を増やしたり減らしたり、髪の毛を抜いたりする俳優も存在して、それはすごいとは思うけれど、「演技」によって「まるで別人」になることはごく稀だし、それよりも、おなじみの人物がドラマを演じてくれる安心感も、日常には必要ではないかと思う時もある。
妻は、今だに「ロングバケーション」が好きらしいが、そのドラマは、1996年だから、すでに25年前のことなのが信じられないほど、それからも、木村拓哉は、ドラマにも、映画にも出続けている。
しかも、ずっと印象が変わらない。
変わらないために、どれだけの努力や工夫が費やされているのかは、想像するしかないけれど、尋常ではないのだけは、わかる気がする。
それに、どの役も、安定感があって、自然だから「いつもキムタク」などと言われてしまうのかしれないけれど、時間が経つほど、それがどれだけ凄いことなのか、を考えさせられてしまう。
もともと、視聴者にとって、「演技の凄さ」は、どこまで分かっているのだろうか?と自分も含めて思うし、ドラマや映画を見ている時に、その世界に抵抗なく入り込めれば、それで演技がすごいということなのかもしれない。
どの分野でも、すごい人は、さりげない。
そして、再放送を久しぶりに見ていて、もしかしたら、そんなに会う機会がない知り合いよりも、木村拓哉の顔の方を、この20年間、より多く見てきたかもしれないと思うと、それは、少し怖いくらい凄いことかもしれない、とも思った。
「役名」について
これまでに20もの職業を連続ドラマで演じており『BG~身辺警護人~』で21職種目と報じられている。
おそらくは、あまりにも多くの役を演じてきたせいもあるのだろうけど、木村拓哉のドラマの時の「役名」が覚えられない。それは、個人的に記憶力が弱いせいもあるとは思う。
だけど、画面に出てきた瞬間に「あ、キムタクだ」と思ってしまい、その上で、今回は、「どんな役なのだろう」と思って視聴者としては見ていて、そこに違和感はないから、それ以上に、その「役名」まで気持ちが行きにくい。
シリーズで長く放送していれば、例えば、「相棒」の水谷豊が「杉下右京」という役名だったり、ドラマに出ること自体が貴重であれば、田村正和の「古畑任三郎」という名前は、忘れないと思うが、木村拓哉の演じるドラマ上の名前である「役名」は、そのドラマを放送している時も、なぜか覚えにくい。
それは、ずっと「木村拓哉」を見ていて、本名でもあるのだけど、その愛称である「キムタク」と並行して、フルネームでこれだけ広く知られている人も、ほとんどいない、という事情も関係しているはずだ。
木村拓哉氏の姿や顔を画面で見た瞬間に「木村拓哉」という名前で、印象が占められてしまい、それ以上の「名前」が入ってこないのかもしれない。
例えば、これからのドラマや映画で、役名もずっと「木村拓哉」だとしても、視聴者や観客としては、おそらく抵抗感はほぼなく、ただ、「次は、どんな木村拓哉なのだろう」と思って、役名を覚えるという負担もなく、より、その世界に入っていけると思うのだけど、これは、ただの個人的な妄想なのだろうか。
そんなことを思ってしまうのは、木村拓哉氏が、「木村拓哉」として、これだけ長く「第一線」に存在し続け、変わらないからで、そんな存在は、本当に、ごく稀な存在だと思う。
「アデル、ブルーは熱い色」と「ボブ・ディラン」
2013年のフランス映画「アデル、ブルーは熱い色」は、カンヌ映画祭で、パルム・ドール賞を受賞した。その映画は、画面に、主人公がアップになっていることが多く、不思議だけど、とてもリアルな印象を残す作品だった。
その後に知ったのは、主人公の「アデル」という役名と、その「アデル」を演じる俳優の本名が一緒で、それは偶然ではなく、監督の意志として、同じにした、ということだった。それによって、よりリアルな作品になるとは思ったのだけど、俳優の負荷は大きいと思われ、そのことへの評価もあったせいか、パルム・ドール賞が、監督だけでなく主演女優2人にも贈られたという。
この映画は、その役名に関することだけでなく、「ほとんどのシーンがアドリブ」など、実験的な試みがされていて、それが映画の評価にもつながった可能性はあるけれど、この「役名と本名を同じにする」ことは、「アーティスティックな試みの一つ」でもあることを証明していると思う。
それは、作品には思わぬ効果を生むのだけど、主演女優のうちの1人は、そのことを拒んだということでもあるらしいので、それは、見ている側には、想像できない苦痛を与えることかもしれない、とも考えられる。
すでに伝説的な存在になってからも長い「ボブ・ディラン」だけど、その個人史の中で、出生時の名前は、全く違っていたはずなのに、今は、本名も「ボブ・ディラン」にしているという。
それは、様々な事情があるのだろうし、本人の思いもあるに違いないが、インタビュー嫌いでも有名だから、詳しく語られていないように思う。
もしかしたら、私が無知なだけで、実は知られていることかもしれないが、これだけ「誰にでも知られるような存在」になった人物が、表に出ている名前と、プライベートな呼び名を、自分で一致させるようにするということで、自分の存在を、また違うものにしようとする意図はあるようにも思う。
これも「アーティスティックな行為」なのかもしれない。
すべての役名を「木村拓哉」にすること
「アデル」や「ボブ・ディラン」に見られるように、本名と役名(ミュージシャンネーム)を一致させることは、それほど多いことでもないし、それをすることで、その本人には、思いもかけない負荷や、変化をもたらす可能性もありそうだ。
ただ、このことは、今も「アーティスティックな試み」であるとは思う。
もしも、これから先、木村拓哉氏が、「俳優・木村拓哉」として、これからの新しいドラマや映画では、「役名」もずっと「木村拓哉」にするとしたら、そうした行為が、作品にどのような影響があるのか。何より、木村氏本人には、どのような変化があるのか。
おそらくは、視聴者にとっては、「木村拓哉」であれば、比較的、自然に受け入れた上で、作品を鑑賞する際には、それほどのマイナスの影響もなく、いつも「役名」が「木村拓哉」であれば、毎回、覚えなくてもいいし、本名のまま演じることは、どのようなことなのか、それほど意識しなくても、自然に見ることになると思う。
それは、考えたら、すごいことでもあるけれど、同時に、それは、注意深く見る視聴者にとっては、新鮮な体験であり続けるように思う。
さらに、「役名」と「本名」がずっと同じであることで、演技やフィクションやドラマや映画とは、どういうものなのか。木村拓哉、という俳優の存在が、そのことをずっと問い続け、さらには、その体験が、どのような意味を持つのか。それが言葉として表現されれば、演じる、ということについての、とても「貴重な財産」として、残り続けるようにも思う。
そうした試みが可能なのは、おそらくは木村拓哉氏だけだと思うので、とても無茶で失礼なことを言っているのかもしれないけれど、それだけで、これからの「木村拓哉の俳優活動」の意味が、また大きく違ってくるように思う。
熱心なファンの方にとって、失礼な言葉ばかりを連ねているかもしれず、何よりご本人にとって、さらに失礼なのだとも思います。すみません。それでも、もし、よろしければ、ご検討していただければ、ありがたく思います。
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