少しでも、残酷さを減らすために出来ること
なんとか、少しでも世の中が良くならないだろうか。
そんな漠然とした思いは、濃淡は変わっても、いつも心の中にあるような気がする。それは、純粋に利他的なことではなく、そうなったら、自分ももう少し楽になるのではないか、といった打算的な気持ちも込みだったりする。
同時に、戦争など大きな悲劇があると、何も出来るわけがないから、なるべく考えないようにしてしまう時もある。そんな人間の「少しでも世の中が良くならないだろうか」といった願いには、何の力もないのだと思うこともある。
星野源の言葉
だから、もっと社会に対して力のある人に対して、勝手かもしれないけれど、そういう「世の中を良くしてくれるのではないか」という期待をしてしまう。
この本↑は星野源のエッセイ集であるのだけど、同時にとても優れた闘病記でもあると思う。同時に支援とは何か?医療の本質とはどういうものか?といったことも考えさせられる部分も多い。
それと同時に、星野源の、2011年から2013年の頃の気持ちが記録されている。アルバムでは『エピソード』と『Stranger』というミュージシャンとしてのキャリアを積んでいた時期のように見える。
こうした真っ当なことを、人気も手にしていく人間に記してもらえることは、モデルケースを示してもらえる、という意味でも有難いことだった。だが、この文庫版は、さらに何年後かの星野源の視点まで入っている。
その視点は、2019年、文庫化に際してのあとがきとして書かれている。それは、音楽活動だけではなく『逃げるは恥だが役に立つ』というテレビドラマの出演も含めて、国民的スターと言っていい存在になってきた頃のはずだ。
最初にエッセイ集が出された頃と比べたら、社会的な力は遥かに大きくなっているはずで、しかも、もともと真っ当な思いを持っていたように思える星野源に、どんなに頑張っても、世の中は良くならない、と言われてしまうと、何の力もない人間にとっては、やはり絶望が感染してくるような思いにもなる。
でも、同時に、世の中を変えたい、と大きく構えることで、逆に何もできないのでは、ということも伝えてくれているようにも思える。
自分が面白いと思うことを、それが世の中を変えるかどうかは分からないけれど、黙々とやっていくしかない。結果として、それが世の中を変化させるかもしれないけれど、世の中を変えようと最初から思っての行為はかえって無力なのではないか。
それは、実際にある程度以上の社会的な力を得ないと分からないようなことも伝えてくれているのかもしれない。
残酷さを減らす、ということ
でも、実際に「少しでも世の中を良くしたい」と思うならば、具体的には、どうすればいいのろうか。
先日、この本を読んで、改めて「正義」や「公正」など、「正しいことば」の大切さを考えるようになった。
どこまで理解しているかどうかについては、それほどの自信がないものの、それでも、ただ「世の中を良くしたい」という気持ちだけでは、そこに熱意があったとしても空回りしたり、どうすればいいのか、よく分からなくなったりするのではないか、といったことは、なんとなくわかった気がした。
その中で、「正しいことば」を遠ざけるべきでない理由のようなことを覚えている。
それは、「残酷さ」を減少させることと関係があるようだった。そこでは、ジュディス・シュクラーという哲学者の言葉が紹介されていた。
そうであれば、社会の中で生きていき、目指すべきことの一つが「残酷さを減らすこと」だという主張には、不思議な説得力の強さを感じた。
そして、その「残酷さ」は外側にあるだけではなく、自分自身の内側にもあることを、忘れてはいけない、ということならば、それは他人事にはなりにくい。
あまり簡単に言うのは間違っているのもしれないが、自分自身が被害者にも、加害者にもなり得るが、それでも、「残酷さ」を減らす努力はしていくべきだ、ということだと思った。
職場での残酷さ
21世紀に入ってから、会社という職場で長く働くのが難しくなったように感じている。それは、自分自身が、正規社員などではなく、働くとしてもほぼアルバイトやパートなどと変わらない勤務体系でしか働いていなかったとしても、伝わってくるようなことだ。
さらには、間接的に見聞きしたことや、メディアなども通した情報も加えると、その変化ははっきりとしているように思う。
残酷さが増えている。
そんなことを思ったのは、書籍を読んで「残酷さを減らすことが」が目指すべきことでもあるという、直感的な理解をしたにも関わらず、日本の社会の現実は、残酷さが増すことがあっても減ることがないのを、思い知らされるようなことが多いからだった。
(「ボリタスT V」 非正規公務員の8割が女性 問題山積みの会計年度職員)
自分が無知なせいだけど、気がついたら、公務員でも会計年度職員という制度ができていた。
その課題について、この「ポリタスTV」でも話されていたのだけど、仕事は正規職員と変わりなくても、給料は低く抑えられ、その上、会計年度、という区切りがあるから、基本的には1年以内。更新はあるとしても、それがあるかどうかはギリギリまで分からない。次がないと分かってから、次の仕事を探すには時間が足りない。
こんな不安定な制度が取りいれられるようになった。
こうした働き方は、精神的に負担が大きい。近い将来がどうなるのか分からないのに、収入も高いわけではない。だから精神的に病む人も少なくない、というような内容まで話されていた。
しかも、その状況に対して、正規職員はそれほど関心を持てないらしい。毎日忙しければ、隣の席で働いている人が、残酷な制度によって苦しんでいても、自分だって大変だったら、気にかけることはできないのが自然だとも思う。
それまでロクに知らない人間が言う資格はないかもしれないけれど、残酷な制度だと思った。
分断
残酷さを増しているのは、同じ職場にいるのに、正規職員と、会計年度職員とで、待遇が違うせいも含めて、分断が生まれているせいもある。
その実際の例を、「鈴木さん」が伝えてくれている。
この上司は、正規職員だろう。何かしらの業務命令に従って、こうした言葉を伝えているだけに違いない。でも、そこには残酷さが含まれている。
しかも、「雇い止め」も、急に告げられることが多いらしい。
やはり、正規職員と非正規職員(役割を表す言葉の最初に、正か非か、という文字がつくのがおかしいけれど)の違い自体が、より残酷さを生んでいるようだ。
無知という残酷さ
自分の経験している範囲はとても狭い。
それは、私のように社会の隅で生きている自覚がある人間だけではなく、誰でも一緒だと思う。
さらに、自分と全く違う人間がいる、ということを知っていること、知ろうとすること。少なくとも話を聞こうとすること。そうした姿勢も意識し続けないと、自分以外の世界があることを実感するのは難しい。
こうした採用担当者の言葉に含まれている穏やかな残酷さには、ちょっと怖さも感じる。そして、このことに対して「経歴に対する差別」という指摘をしても、採用担当者は、おそらく戸惑うだけではないだろうか。
この引用の中に出てくる採用担当者は、学校を卒業し、もちろんそれなりの個別の大変さはあったものの、正社員として雇用されるのが大多数だった時代に入社し、現在の地位にあるのだろう。
だから、それ以外の、就職氷河期と言われる時期に、正社員に雇用されること自体の大変さとか、さまざまな出来事によって仕事を辞めざるを得ない状況に対しても、おそらく想像ができないのではないだろうか。
そして、無業や非正規社員という時期がある人が、自ら望まなくても、どうしてもそうせざるを得なかったこともある、という事に対しても、考えたこともないのかもしれない。
公務員の非正規職員と正規職員に関して、お互いのことを知らないことが分断を生むのではないか、という指摘があったのだけど、無知であることが生む残酷さが、思った以上に多いのではないか、とも思う。
残酷さに慣れてしまうこと
とても個人的な経験に過ぎず、20世紀のことだったから昔のことでもあるし、今と比べたら景気がよかったはずなのだけど、マスコミ関係は、大手以外は待遇がいいとは言えなかった。
それでも、自分が望んで選んだ仕事だったし、さまざまな現場や、いろいろな人に会って取材してそこで見たり聞いたりして思ったことや感じたことも含めて書いていくのは、やっぱり楽しくもあった。
毎日のように締め切りがあるような仕事だし、徹夜もあったから、肉体的には辛い部分もあったはずだし、それに対しての報酬としての給料も、決していいとは言えなかったけれど、やりがいはあった。
今振り返れば、それはもしかしたら、やりがい搾取と言われるような状態だったのかもしれないけれど、自分が書きたいと思うものを書きたい。無理とは感じていたけれど、できたら、それだけをして暮らしていければいいな、とぼんやりと思っていた。
だから、会社を辞めてフリーのライターになった。
特に、それまでその世界で知られているわけでもないし、顔が広くて仕事をもらえることもなく、さらには、あちこちに飲みに行って人脈をつくる性格でもなかったから、仕事そのものをなんとかすることから始めなくてはいけなかった。
今、考えたら、それでよく仕事をくれる人がいたと感謝する思いにもなるのだけど、まだワープロもコンピュータも使えなかったから、手紙と企画書も全部、手書きで、それもかなり下手な字で、さらには「1、連絡が欲しい 2、こちらから連絡する 3、興味がない (その理由)」といったことを裏面に書き、表には自分の住所・氏名を書いた「返信用ハガキ」もつけたら、返事をくれて、さらには仕事を発注してくれる人までいた。
それでも、仕事がたくさんあるわけでもなく、取材をしていたとき、その相手から、月にどのくらい締め切りがあるんですか?と聞かれて、割と素直に答えたら、〝そうですか。この前、取材を受けた〇〇さんは、月に20本くらいは締め切りがあるって言ってましたよ〟と同じ業界にいる著名なライターの名前を出されて、ちょっとへこんだこともあった。
だから、半年先に仕事があるかどうかもわからないから、もしかしたら1年くらい先まであるかもしれない連載があるだけで、すごく有り難く、つい先の収入がわかることの方が少なく、最初は低めだけど軌道に乗ったら原稿料はあげるから、などと言われて、それが実現した記憶はなかったけれど、文句を言うことはなかった。最悪のときは原稿を書いたのに支払いがないまま連絡がとれないこともあったが、そのときは、それから乗り込んで交渉して戦わなくてはいけないと思うと、それがおっくうになり、あきらめてしまった。
仕事を発注されるときに、原稿料のことも言われないまま、仕事をするのが普通だったし、少しでも、そのことに触れると、特に自分がまだ若い時は「お金の話をする人は、ダメになっていく」といったことを、編集者に言われるのも少なくなかった。
それでも、どこにも所属しないで仕事をするのは、不安定が当然だと思っていた。
3ヶ月先の収入しか分からず、発注を受けた時にいくら支払われるかも知らなかった。定期的に仕事をしていれば、その目安はついたものの、連載以外では、どのくらいの仕事ができるかどうかも分からなかった。
それを10年続けていたら、それが前提になっていた。
取材した相手に言われた「〇〇さん」はテレビなどでもコメントするような存在になっていたから、黙っていても仕事が来るのかもしれなかったが、私のような「売れないライター」は、こちらから働きかけないと仕事はなかったのに、それほど「営業」を熱心にすることもできなかった。
その後、介護に専念し、仕事もしない時期が10年以上あった。
その間に資格を取得したものの、現在も、非正規の働き方しかしていなくて、1年ごとの更新が基本のようになっているのだけど、1年間はとりあえず仕事があることがありがたく思えてしまうのは、それまでの働き方や無職の期間が長過ぎて、残酷さに慣れてしまっていたのかもしれない。
考えたら、組織に所属していなくても、ハリウッド俳優でも組合があって、待遇改善のためにストライキを行ったり、小説家にエージェントがついたりしている話を、それこそニュースなどで聞いて知ってはいたけれど、自分と関係があるように思えなかった。
だから、残酷さについて無知だったし、働くことに関する不安定さを減らす----それは残酷さを少しでも軽減することにつながるはずなのに、そうしたことにあまりにも無関心だった。
自分は無力だったし、自分が働いて生きていくだけで精一杯で、今も貧乏なままだけど、こうした今までの自分の在り方も、残酷さを温存することに関係しているかもしれない。
現在、会計年度職員のような制度が生まれてしまい、それが残酷であることがわかっていても、正規職員として立場が違う人間からは、その残酷さが見えにくくなっていて、それだけでなく分断されるようなことになっていて、それによって、残酷さが温存されているのかもしれない。
ただ、それは同時に、個人の責任ではなく、社会のシステムの問題だとは思う。個人の心がけや、努力だけでは、限界があるのは間違いないはずだ。
大人のいじめ
こうした本を読むと、21世紀の日本で働くことは地獄ではないか、と思ってしまった。
この書籍が発行されたのが2021年なので、この状況は現在の問題でもあると思う。
その具体的な状況も明らかになっている部分がある。
そこにいたわけでもなく、直接知っていることでもないから、無責任かもしれないけれど、これは本当にひどいことだと思った。
知らないうちに、そういう世の中になってしまったようだ。などと他人事のようには語れないことがあったのが、この本を読んだ頃だった。
新しい差別
この「大人のいじめ」の書籍の中では、現在の状況を招いたと思われる様々な要素が描かれているのだが、特に根が深くて、気持ちが重くなりそうなことが、この『労働の「質」を放棄させるいじめ』に関することだった。
ここからの分析は、ある意味でとても怖いけれど、すごく納得できるものでもあった。
少しでも、残酷さを減らすために出来ること
書籍を通して、もしくは自分の限定された経験に過ぎないけれど、こうした残酷さを知ると何もできないのではないか、といった気持ちになる。
ただ、まずは、社会には「残酷さ」にあふれていること。それを、それが人間の社会であるから仕方がない、という諦観のようなものに自分を落ち着かせずに、そのことを、自分の身近で起こっていたとしたら、まずは具体的に把握すること。
もし、できたら、そこからなんとか出来るだけでも、残酷さを減らすような工夫や努力をしてみようとして、少しでもすること。
残酷さとは、定義を細かくすれば、キリがないし、残酷さを体現しているような人は、それを正当化しようとしそうだが、繰り返しになるが、基本的には、繰り返しになってしまうが、こうしたことだと考えればいいのではないか。
当然ながら、「大人のいじめ」も、残酷だし、会計年度職員という、少し先のことも分からないまま働くシステムも残酷だし、自身の仕事で手一杯でそれどころではないとしても、少なくともこうした残酷さを知らないままなのは、知らないうちに残酷さの側に加担してしまっていることにつながりそうだ。
あまり、そう言ったことを考え過ぎて、自分を責めるのも違うのかもしれないけれど、まずは、自分が残酷な扱いを受けたら、それをただ受け入れるのではなく、自分ができる範囲で、抗議をする。異議を唱える。
さらには、自分ではない誰かが残酷な行為をされていたら、やはり、それは残酷なことだと指摘できたら、とは思うが、自分でもできそうもないので、それでも、気持ちのどこかで目標として忘れ去らないようにする。
残酷さに負けないように、相談窓口などを利用することも考えられる。
さらには、加害側に回らないように内省を忘れない。これも前出した事で繰り返しになるのだが、再確認したい。
もっと大きく考えれば、社会のシステム自体によって減らせる残酷さも少なくないはずだ。だから、選挙があったら、その視点によって投票する人を選ぶようにする。
選挙に行っても何も変わらない。
そんな言葉は数限りなく聞いてきたし、確かにそうだろうと思うことも多い。ただ、とても微力ながら、さらには年齢を重ねても恥ずかしいほど未熟ながら、それでも時々、世の中が良くならないだろうか、と思うことがある。
そんな時、個人として何かをしても、砂漠に水を撒く、ということは、こういうことか。としか思えないけれど、そういう社会に働きかける、という大げさなことをするとしたら、どれも微力だとはしても、実は選挙の投票というのは、一個人として社会に対して及ぼせる影響としては、相対的にはもっとも強いのではないか、と思うようにもなっている。
だから、選挙にも行くし、特にこれからは残酷さを減らせる可能性がある人に投票したいと思っている。
できることは少なくて、自分の力も小さいままのだけど、それでも、考え続けて、やれることはやっていこうとも思っています。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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