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読書感想 『熱血シュークリーム』  橋本治 「独特の本物」

 本を読む習慣はほとんどなかったから、20代の頃から細々とながら、ずっと読み続けている著者は、もっと少ない。


読書習慣

 それは、時代が変わると、著者の視点がずれていくように思えたり、自分自身が変わることによって生意気な言い方だが、読めなくなったりしたこともあった。

 だけどその中で最初から、あまりにも他の著者と違って独特で戸惑いを感じるくらいだったが、その後何十年も印象が変わらず、凄さを伝えてくれる著者が橋本治だった。

 あまりにも膨大で全部を読んでいるわけではなかったが、『窯変源氏物語』は販売したときに、出版されるたびに購入し、全巻揃えた。その作品を読み、時代が変わっても、人は変わらないのかもしれないと思ったりもしたが、精読には遠いので、どこまで理解したかも自信がなかった。

 年齢を重ねてから、やっと読書習慣がついて、本を少しずつ読むようになって、名作と言われる作品(例えば、夏目漱石『明暗』)も読んで、ようやくその凄さが少し分かるようになったので、もしかしたら、橋本治の作品も、もう少し理解できるかもしれないと思うようになった。

 同時に、生活していて、何か分からなくなると、橋本治が書いた、その時代のことについての「時評」的な作品を読んで、全部は理解できなくても、何かが分かったような気がすることも多く、すごく参考にしていたから、それは知らないうちに頼っていた、ということになるのだろう。

 2019年。日本の元号が変わる前に、橋本治は亡くなった。それ以前から難病にかかっていたのは読者として知っていたのだけど、やはり突然のことに感じたし、ショックだった。

 こういう時代の変わり目に、何を書くのだろう?といったことを勝手な期待を抱いていたのだけど、それはもう不可能になってしまったし、読者として、思った以上に頼る気持ちがあったことにも気がついたが、それは著者にとっては迷惑だろうとも思った。

『熱血シュークリーム  橋本治 少年マンガ読本』 橋本治

 あれだけすごかった書き手なのに、そして、膨大な作品を遺しているのに、現時点では、どうやら絶版になっている書籍も少なくないようだった。

 その一方で、どんな理由か分からないのだけど、突然、復刊するような作品もあって、しかも未読の書籍が、この作品だった。少女漫画について書いた『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』は読んで、その中で少年マンガについて書いている作品もあると書いていたのが、この作品だったので、気にはなっていた。

 最初の出版は、1982年で、橋本治が34歳のとき、しかも、出版の日を橋本の誕生日に一致させていたという。

少年マンガは、世界広しといえども、この日本にしか存在しないのだ。

(『熱血シュークリーム』より)

 ほぼ冒頭から、知らない情報だった。そして、それからも橋本治に感じる、自信はあるけれど、偉そうでなく、上からではなく独特の視線からの話が続く。

少年マンガというものを求める購買客が日本にしか存在しなかったという理由。

(『熱血シュークリーム』より)

 そして、理解し難いのだけど、ふと納得してしまいそうな言葉が、「はじめに」の終盤に並ぶ。

 例えば、少年とは何か?について、こうした意味付けがされる。

それは、本質的には少女とも大人とも境界を持たず、そしてなおかつ女との性的結合を拒否するものである。

(『熱血シュークリーム』より)

 子供についても、こうした指摘がされている。

子供は親の植民地である。親は、よかれと思って、子供に〝文化〟を与えているのだから。

(『熱血シュークリーム』より)

あしたのジョー

「あしたのジョー」は、昭和の人間にとっては「古典」でもあり、その内容を知っているのは前提だけど、それなのに、改めてちゃんと読めていなかったことに気がつく。

 主人公の矢吹丈は、突然、現れる。15歳で、しかもその前歴は不明なままで、それを当時は「風来坊」と表現していた。

読者は風来坊であることをカッコいいと思っている。 

(『熱血シュークリーム』より)

 ここでの読者は、少年であり、そして「あしたのジョー」では最後まで、15歳以前の矢吹丈の過去が明らかにされていない、とも指摘されているのだけど、そのことに初めて気がついた。

単行本として全二十巻の長編『あしたのジョー』は、」実は二回始まり直している。
 一度目は丈が特等少年院を退院してボクサーを目指す時。

(『熱血シュークリーム』より)

 矢吹丈は、風来坊として現れ、そして悪事を働くことによって少年院に入れられ、そこでボクシングと、ライバルである力石徹と出会い、退院してからを、橋本治は「一度目の始まり直し」と表現し、そのことを示す変化として、矢吹丈が最初に現れた橋の名前に着目する。

 当初は「風来橋」という名称が「なみだ橋」という名前に変わっていると橋本は指摘しているのだけど、そのことも、知っているはずなのに、全く記憶になかった。

主人公には空白という形でしか過去が存在しないから、過去を持たない人間が未来を目指すのなら、彼はその目指す時点に於いて、一々過去を作り出し確認して行かなければならない。『あしたのジョー』は、過去を提出しながら未来へ進む作品なのである。

(『熱血シュークリーム』より)

 こうした構造をしていることに、これまで気がつかなかった。

力石徹という存在

 そして、ライバルだった力石徹が無理な減量をし、矢吹と同じバンタム級に体重を落としてからリングで戦い、力石は試合には勝つが亡くなってしまい、それからを「二度目の始まり直し」と指すようだ。

〝力石徹〟とはなんだったのか?それは〝ほんとうの友だち〟である。

(『熱血シュークリーム』より)

 ここまでの見方は、当時でもほとんど見かけたことがなかった記憶がある。

 大人の読者は、大人のまま、力石という青年を媒介にしてマンガの中に入り、力石が死ぬと同時に、あきらめて現実へと降りて行った。ただそれだけだった。

 問題はその先なんだよ。その先だって分かってるクセに、みんなテキトーなことを言って降りちゃうんだよ。みんなその先をつめて考えるなんて、メンドクセェこと、しやしねェんだよ。

(『熱血シュークリーム』より)

 だから、その先のことを橋本治は書いている。

 丹下段平は、バンタム級にこだわる〝成長期〟の丈を、フェザー級に転向させようとする。
 丈は拒む。

(『熱血シュークリーム』より)

 まだ10代の矢吹は身長も伸びる。当然だが、体重も増える。だが、矢吹丈は、バンタム級は、力石が減量して命懸けで降りてきた場所だから、そこにい続けている。そのことは作品の中に確かに描かれていたはずだし、私自身も読んでいるはずし、矢吹丈にとって重要なことなのに、恥ずかしながら見事に覚えていなかった。

 そして、東洋太平洋バンタム級チャンピオン・金竜飛との戦いの際、矢吹丈は対戦前から勝てないと思ってしまう。それは、戦争中の混乱とはいえ、飢えのため自分の父親を殺してしまった過去を持つ相手だから、金にとっては減量に苦しむ矢吹でさえ「満腹ボクサー」と批難の対象になり、試合の途中まで矢吹は、その背景に「負けて」しまっている。

 その気持ちをかえたのが、今はいない力石の「存在」だった。

金は「食えなかった」んだが、力石の場合は、自分の意志で「のまなかった」「食わなかった」 

(『熱血シュークリーム』より)

「あしたのジョー」を、学生の頃、1冊ずつ立ち読みして読み切って、その間は本屋にとっては迷惑だったはずで今から振り返ると申し訳ない気持ちもあるが、あの頃もお金がなくて、本当にハタキをかけられたりもしながらだけど、このシーンは今でも覚えている。

相手が病人であるという喝破。

(『熱血シュークリーム』より)

 そして、矢吹丈はその試合に勝利し、それから、マイホームパパでもある無敵のバンタム級のチャンピオンとの試合まで戦い続ける。

 彼は、ボクシングをすることによって解き放たれる。彼と同じような相手と巡り会った時、初めて解放される。その状態を彼は、〝まっ白な 灰だけが のこる……〟と表現する。

(『熱血シュークリーム』より)

独特の結論

 だが、矢吹はチャンピオンになれない。

作り物なんだから〝チャンピオン〟になるのが必要だったら、さっさと〝チャンピオン〟にしちゃったら?
 出来ないの?―――へェーッ
 どうして?――― さァ?
 不思議だね。どうして出来ないの?不思議だなァ。所詮はたかがマンガなのに。

(『熱血シュークリーム』より)

 これで、橋本治の「ちばてつや」論は終わる。

ちばてつやの少年マンガはラストがすべてどこかおかしい。すべてが唐突に完結してしまうのだ。  

(『熱血シュークリーム』より)

 このことに膨大な「何か」が含まれているはずで、それは、「ちばてつや」という一人の偉大な漫画家の問題だけではなく、日本社会だけではなく、もしかしたら人類全体の「何か」に関係したりするはずなのだと思わされるけれど、それについての理解は、読者としての自分は残念ながら及ばなかった。

絵のうまさ

 橋本治が最初に注目されたのは小説家ではなくイラストだった。

 だから、マンガを語るときに、その絵画表現そのものに対しての分析や指摘も説得力があり、他の評論家とは違う視点を提示しているように思える。

 だから、絵が上手い、と言われている大友克洋のことも、ただ技術の高さを指摘するだけではなく、さらにその思考にまで踏み込んでいる。

 大友克洋は、絵を描くということと〝知る〟という行為を同時にやってのけられる人物であるということである。つまり、大友克洋にとっての〝絵〟とは、物事の構造的理解であるということに他ならない。

 大友克洋は、知ろうとすればなんでもよく知ることが出来る方法を知っている作家なのだ。 

 大友克洋はなんでも描ける。

(『熱血シュークリーム』より)

 その上で、こうした飛躍したともいえる断定にまで進む。

ホントの話が、誰だって大友克洋になれるのよ、まともに生きてりゃ。

(『熱血シュークリーム』より)

 さらには、永井豪、手塚治虫、横山光輝、吾妻ひでお、高橋留美子らの作品が語られているのだけど、今読んでも、おそらくは他では接したことのない指摘と分析が続いている。

可能性

 そして、この『熱血シュークリーム』の下巻の発売を橋本自身が予告しつつも、未完のままだったので、今回、この書籍が2019年に再編集して発売される際に収録された「バタアシ金魚論」でも、作者・望月峯太郎の絵について触れている。

勿論望月峯太郎の絵はうまい。『バタアシ金魚』は水泳部のマンガだから、水の中のシーンがやたら出て来るが、これがもう、うまい! 

彼の絵はほとんどスケッチだ。一瞬を拾い上げたスケッチを丹念に絵にしているという、そういう種類の洗練が望月峯太郎。  

(『熱血シュークリーム』より)

 その上でこのマンガの独特さを指摘する。

『バタアシ金魚』というのは、それ自体が豊かなドラマ性を持つ描写表現によって、そこからストーリー性を持つ主人公のドラマが立ち上がるという、そういう珍しい種類のマンガなんだ。 

(『熱血シュークリーム』より)

 その上で、「バタアシ金魚」の主人公の独りよがりの暴走のようなものが、少年マンガが描く大事な要素である「可能性」にもつながるのではないか、とも言及しているように感じる。

可能性というものはそういうもんで、アホらしさは極端の上にしか開花しない。

(『熱血シュークリーム』より)

 そして、こうした見定めこそが橋本治だ、と思えるような独特でありながら真っ当な断定につながる。

 大体、すべての新しい才能は、役に立たない才能からしかスタート出来ないんだぞ。なんの役にも立たない才能を、ただ普通に存在する有用な才能に変えていく事をこそ変革って言ったりしてね。それが出来る人間のことをこそ〝才能がある〟って言うんだ。そこら辺みんな誤解してるね。 

(『熱血シュークリーム』より)

 橋本治を読んだことがない人。
 少年マンガにそれほど興味がない人。

 やや屈折した見方かもしれませんが、そうした人たちにこそ、できたら読んでもらいたい書籍です。その上で、この本で触れられているさまざまな少年マンガも、手に取ってもらえたら、と思っています。

 もし、そうした過程をたどってもらえたら、想像以上に視野が広がるのは間違いないようにも、思っています。



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