「常識」を支えているのは、誰なのだろうか?
転職をテーマにしたドラマを見た。
実際の転職エージェントが、どういうものかは知らないけれど、何度か見ていると、基本的には、転職を望む人たちに対して、時には本人も気づいていないような、本当の希望のことまで考えて、転職を促す、というオーソドックスなストーリーだと思った。
だけど、私は転職エージェントを利用したことがないので、実際は、こんなに丁寧に付き合ってくれるのだろうか、とも思った。
転職の常識
そのドラマの中で、こうした言葉が言われていた。
30歳を超えると、選択肢が減る。
35歳以上は、転職ができない。
フィクションとはいえ、現実と大きく違ったことをドラマにすることも考えにくいし、似たようなことは、20年前にも聞いた気がする。
だから、まだ「常識」が変わっていないのだろうか、という気持ちと、それでも、昔は選択肢が減るのは25歳と言われていただろうし、特に、女性に対して「クリスマスケーキ」(結婚をするのなら24歳まで)といった失礼な比喩が使われていたことを考えると、人の「常識」は確かに変わっていくのがわかる。
だけど、同時に、転職(実際は転社だと思うけれど)について、「35歳」がリミット、といった「常識」は、それほど変わっていないようにも感じているのは、現在、定年を迎えるような世代にとっては、会社を変わること自体が少数派で、異端とまでは言わないけれど、終身雇用で1つの会社に勤めることが「常識」のような感覚のままのせいかもしれない。
だから「35歳が転職のリミット」が変わっていない可能性がある。
さらにどうして、「35歳」なのかと考えると、会社を移ったら、その会社で定年まで勤めるという発想を元にしているとすれば、その「35歳がリミット」ということも合理的なようにも思うけれど、すでに「終身雇用」が変わるかもしれないことを思うと、いつまでも「35歳」をリミットにするのは、あまり意味がないようにも感じる。
しかも、平均寿命は伸びてきていて、どこかビジネスの気配はするとしても「人生100年時代」などと言われているのだから、いつまでも「35歳」を転職のリミットにすることは、合理的ではないのだとも感じる。
でも、どうやら、まだ「35歳がリミット」は、「常識」のままのようだ。
予言の自己成就
「予言の自己成就」という言葉がある。
「予言の自己成就」の具体例として、この豊川信用金庫のことはよく目にすることだから、他にはあまりない、という言い方もできるけれど、ここまで大規模ではなくても、大勢の人が信じて、そのように行動すれば、現実は変わっていくのは、事実だと思う。
だから、女性の結婚適齢期(この言葉も見られ方が変わってきた)が、クリスマスケーキにたとえて「24歳まで」などと言われていたのが、そんなことは、今では誰も口にすることはなくなったのだろう。
今だにリミットをあおる「理論」もあるそうだけど、もしも、医学の進歩によって出産可能年齢が驚異的に上がっていくことがあれば、そうした「理論」はなくなるかもしれないし、結婚=出産という「常識」がなくなれば、年齢にこだわることもかなり減ると思われる。
だけど、この「理論」と「適齢期」という存在を信じていたとしても、その「信仰」の中でさえ、6年ほど伸びたのは、実際に結婚を選択する人の多くが、その「クリスマスケーキ理論」だけにこだわらなくなった、ということが大きいのだと思う。
これも一種の「予言の自己成就」に近いことではないだろうか。
転職35歳限界説
この「転職35歳限界説」を実際に聞くようになるのは、自分が30代になった頃、会社を変わりたいといった話題が出た時ではないだろうか。そういった場合、4〜5人の人がいると、その中の一人が、とてももっともらしい表情をして、「35歳が限界らしい」と語るのを、経験した人は多いと思う。
そして、その場面での、その話題を出した人への信頼度や、もしくは、その時の説得力によるのだろうけど、その言葉を聞いた人が、おそらくは真剣に会社を変わろうと思わないけど、そうした転職のことが話に出てきた次の機会に、なんとなく「35歳が限界」ということを言っているような気がする。
そうすると、「豊川信用金庫」の取り付け騒ぎのように、その言葉が本当かどうかよりも、その言葉が口にされた回数によって、まるで本当のことのようになっていく。
それは「常識」の定着の方法の一つだと思う。
「35歳限界説」の崩壊
ただ、すでに転職のプロから、「35歳転職限界説」が崩壊しているのでは、という指摘がある。
そこには、様々な採用側の事情の変化もあるというのだけど、それに加えて、転職希望者側の意識の変化も関係しているようだ。
今の会社に様々な不満があるので、会社を移り、できたら、定年まで、という意識ではなく、自分の仕事の能力が必要とされる場所に、自分のやりがいなども含めて、複数回の転職を考えるとすれば、健康である以上、能力さえあれば、あまり年齢に関わりなく、会社を移ることができるようになってもおかしくない。
そういうことが「常識」になってほしいとは思う。
「常識」を守っているのは誰なのか?
おそらく、「常識」にとらわれない、と思った時点で、「常識」を無意識のうちに守ってしまっているのだと思う。
つまり、どんなふうに思ったとしても、実はそれが根拠がそれほどないとしても、「常識」というものがあると認めてしまった時点で、その「常識」は広がり、根付き、まず最初に気持ちの部分を拘束する。
その結果として、人々の動きは制限され、その「常識」を証明することになる。それは、誰が指示しているわけでもなく、強制しているのでもないのだけど、でも、その「常識」がある間は、全く動かないほど強固なものにも見える。
でも、その「常識」を支えているのは、特定の誰かではなく、「みんな」という具体的には分からない多数派だけれども、間違いなく「自分」もその中に含まれている。
だから、自分が、その「常識」を信じなくなって、その上で、その「常識」を無視するような行動をするようになれば、その「常識」は気がついたら、(時間はかかるかもしれないけれど)「常識」ではなくなるはずだ。
ただ、問題は、最初、もしくは初期に、そうした行動をしたとすると、まだ「常識」は動いていないから、とても痛い目を見たり、損をするのではないか。
そんな恐れを持っていると、結果として、心も体も動けなくなり、ずっと「常識」は変わらないままになる。
その恐れが、おそらく「同調圧力」とも言われるのだろう。
マトリックス
1999年の映画だから、すでに20年以上前の作品なのだけど、今でも新しい視点を提示した映画なのは、おそらく間違いはない。
この映画は、現在の「世界」が実はバーチャルに過ぎず、「世界」はコンピュータに支配されていて、人間は、すべて眠りにつかされた上に電源として生かされ、「世界」を夢のように見させられているというストーリーだった。
それでも、人類は、その「事実」に気がつき戦おうとするのだけど、その中心人物になっていくのがキアヌ・リーブスが演じる「ネオ」だったが、第1作の終盤で、自分の力に気がつくシーンがある。
今、自分が生きていると思っている「世界」は、コンピュータによって、「見せられている世界」に過ぎない。だからこそ、自分の「意志」によって、なんでもできるはずだ。全部がバーチャルだから可能なはずだけど、そこを「人類」が踏み越えるのは難しい。
でも、そこを超えられるから、「ネオ」という救世主でもある。「ネオ」は、空も飛ぶし、拳銃の弾丸も避けられる。なんでもできるのは、自分の「意志」の持ち方次第だからだけど、それでも、それができるから「ヒーロー」になった。
だけど、もしかしたら、最も大事なのは、その「世界」にいる「人類」であれば、その行為は誰でも可能ではないか、と提示しているところかもしれない。
だから、「常識」にとらわれる、ということを考えると、「マトリックス」のそのシーンを思い出す。
私自身も空を飛ぶことは無理かもしれないけれど、目に見えない、自分も支えている暗黙の了解でもある「常識」は、本当は無視できるのではないか。というよりも、まずは自分が望むことをすればいいのではないか。本当は、そのくらいは、できるのではないか。と思うこともある。
そのことを改めて考えたのは、最近見ている別のドラマの影響もある。
『最高の教師』
土曜日の夜に、重いといえば重く、説教のように思えるのならば、そのようにもとれるドラマだけど、個人的には、こうしたフィクションがあるのは、心強い。
毎回のタイトル自体が、すごくストレートだった。
同時に、こうしたことをテーマにしようとすると、「人生2週目」といった要素を入れないと、説得力を持たせるのが難しい現代の困難さも感じながら、ドラマを見ている。
そして、ある意味で見るのがしんどい部分もありながら、ずっと、感心もしている。
覚悟を持って、本当に思ったことを、言葉にして伝えること。
その大切さと、もしも、何かを変えようとするのならば、そのことから始めるしかないのだろう、と改めて考えさせられる。そして、現実は、このドラマのように、その変化が分かりにくいのだろうけど、そのことは、ずっと続けていくしかないのだろう。
同時に、こうしてフィクションとしても、具体的なかたちにしていくこと。そして言葉として存在させること。それも、かなり重要なことなのだろうと思った。
「常識」が、ただ拘束するものになってしまったら、それを支えているのは、自分でもあるのだから、それは変えればいいし、もしくは、その「常識」という基準を考える前に、自分がやりたいこと、望むこと、やるべきと、本当に思ったことから始めればいい。
少なくとも、それを言葉にした方がいい。そして、本当に思っていることを伝えるべきだと思う。おそらくは、そうしたとても小さそうなことが大事なのだろうし、それが「常識」を変えていくために必要なのは間違いなさそうだ。
そんな、どこかきれいごとのような、ささいにも思えることさえ、なかなかできなくて、本音と建前があって当たり前という「常識」ばかりを信じていると、そのうちに、自分の本当に思っていること自体も、分かりにくくなってくる。
そんな当たり前のことを、改めて考えた。
介護離職
そして、普段はあまり意識していないけれど、自分自身も変えたいと思っている「常識」のことも思い出した。
正確に言えば、まだ「常識」として確立していないけれど、静かに「常識」になりそうなことで、それは、「介護離職」のことだ。
認知症の専門医、と言われる人が、介護離職をした人は、悲惨な末路になっているようだ、といった発言をしていた。自分自身も介護を経験した「有名人」が、介護離職をすると、その先がひどいことになっている、といったコメントを出していた。
個人的なことに過ぎないし、会社勤めをしていたわけではないから、微妙に違うかもしれないけれど、私も介護に専念せざるを得ない状況になって、仕事を辞めたから「介護離職」をした一人だ。
そうした専門家の話を聞いた時に、確かに「介護離職」のあとは、特に介護が終わってからは、本当に未来がなく大変なのは間違いない。ただ、もしそうであるならば、それがすべて個人の選択の問題だとはとても思えない。
専門家で、介護のことを語るのであれば、「介護離職」をせざるを得ないことは、これからもなくならないだろうから、それでも「介護離職」を少しでも減らしたいのであれば、十分な支援体制を構築するか。もしくは「介護離職」をして介護をしたとしても、その後に悲惨な末路にならないようなシステムを作ること。それが、専門家の役割だと思って、やっぱり少し怒りがわいた。
同様に、自分自身も介護をしてきたという「有名人」には、それぞれ状況が違うから、その本人しか分からない大変さもあるから、そのことについては、全く知らない人であっても、労う気持ちはある。
だけど、それだけに、その「有名人」も、他の介護者の事情は分からないわけだし、「介護離職」は大変だから、それを止めたい気持ちもあるのだろうけど、だからといって、「介護離職は、その後が悲惨」といったようなことは言うべきではない、と思う。
それは、現時点で、「介護離職」をせざるを得ない人たちがいるからで、その人たちをより追い込む可能性があるからだ。そのくらいのことは考えて欲しかった。「介護離職」をしないで済んでいる場合は、本人の努力や工夫はもちろんあるのだろうけど、その人以上に努力しても「介護離職」をせざるを得ない場合はあるし、「介護離職」しなくて乗り切れた人は、環境に恵まれていることもあり得る。それも、想像してほしかった、という思いもあって、少し悲しかった。
普段は、そうした時の怒りや悲しさについては忘れていても、自分自身も「介護離職をした末路は悲惨」ということにならないようにしたい。というのが、時々、無力感に襲われながらも、なんとか日々の努力や工夫を続けられる、動機の一つにはなっているのは間違いない。
同時に「介護離職をした末路が悲惨」なのが事実だとすれば、それは個人の責任だけとは思えないから、なんとかしたい。まずは、「介護離職ゼロ」を目指すと同時に、「介護離職後の、復職をどれだけスムーズにするか」を考えたいと思っている。
そうなれば、「介護離職後は悲惨」な確率を少しでも下げることができるはずだ。
どこかで書いているから、繰り返しになるのだけど、あらためて、言葉にしてみた。これからも何度も伝えることになると思う。
それが、ほんの少しでも「常識」を変えることにつながる、と考えているからだ。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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