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読書感想 『少年の名はジルベール』 竹宮惠子  『一度きりの大泉の話』 萩尾望都  「人と人とのこと」

 竹宮惠子萩尾望都

 そんなに作品を知らなくても、少女マンガ、というジャンルの中での「伝説的」な存在として、とても遠くて大きい人たちだった。そして、確か、二人は同世代で、同時期に、少女マンガの世界を変えたと言われているくらいは、知っていた。

 だから、その昔の時代の話を文章で書いた、ということを知って、意外だった。さらには、この二人の「伝説的な人たち」が書いていることが、かなり違っているのではないか、という話題にまでなった。

 その出来事は、もう50年も前のことだった。

水曜日のダウンタウン

 すでにやや古い話になってしまっているのかもしれないけれど、「水曜日のダウンタウン」で、長年不仲だった大御所漫才師「おぼん・こぼん」を仲直りさせる、という、ある意味で無茶な企画があった。

 仲が悪くても、仕事として漫才を続けているから、より仲を修復するのは難しいし、視聴者としては、もう無理ではないか、と思えた時に、突然、仲直りをした。

 バラエティで、テレビ番組とはいえ、その時に、当人でも、どうして、このタイミングで仲直りができたのか、よく分からないのではないか、と視聴者としては思った。

 あの瞬間は、人の気持ちや、人と人とのことは、どこか降りてくるようなもので、人間だけではどうしようもできないのではないか。そう感じさせたから、「ギャラクシー賞」を獲得したのではないだろうか。

「少年の名はジルベール」 竹宮惠子

「風と木の詩」や「地球(テラ)へ…」といった代表作を持ち、現在は、京都精華大学学長だから、まぎれもなく「成功者」でもあると思えるのだけど、竹宮惠子が振り返るのは、1970年代。自身が20代で、漫画家としてスタートしてからの数年間で、読んだ印象は間違いなく濃密だった。

 1970年代の漫画家、それも女性作家がどのように編集者から扱われていたのか。もしくは、編集者と実作者が、どのように感覚が違うのか。そういった今でも通用しそうな話題も、かなり冷静に描かれていて、そういう「歴史的」な価値もあると思われる。

 そして、この著作の、一つの大きな流れは、自分がずっと描きたいと思い続けた「風と木の詩」の連載を、どうやって1976年から始められたのか、に関してだった。

 ずっと「売れっ子」の印象があった竹宮惠子が、それでも、新しいものを世に出すことに、かなりの困難があったことも伝わってきて、順調ということは、特に、何かをつくる世界では、あり得ないのだという事実もきちんと示してくれたように思った。


 そして、もう一つの大きな流れは、20代の「大泉サロン」のことで、それも、主に萩尾望都への複雑な思いに関することだった。

 わずか2年なのに、大泉での日々は、5年にも6年にも感じられた。
 萩尾さんには、彼女に対するジェラシーと憧れがないまぜになった気持ちを正確に伝えることは、とてもできなかった。それが若さなのだと今は思うしかない。

 さらに、同居を解消したとしても、その後、近所に住むことになったので、竹宮の苦悩は終わらなかったようだ。

 完全に私の独り相撲だった。
 そのころ、萩尾さんの名を耳にするたびに、耳そのものがギュッとつかまされるような感覚があった。誌面でそれを目にするたびに、何度もその名が心のなかを行き過ぎるのを止められなくて苦しかった。その日一日中、繰り返し、そのことを思い出してしまう。自分でコントロールできない状態に陥っているという自覚はあるのだが、打ち消すことが難しかった。どうすれば解放されるのか。せめて離れたかった。異なる空間のなかにいれば、少しは救われるかもしれないと思い始めるのに時間はかからなかったと思う。
 それから……。どうしようもなくなった私は萩尾さんに、「距離を置きたい」という主旨のことを告げた。それは「大泉サロン」が本当に終わりになることを意味していた。

 才能と運と努力や工夫によって、成功し、後悔が少なそうに見える人物にでも、50年も前の出来事が、これだけ明確に心の中に残り続けていることが意外でもあったし、同時に人の気持ちというものは、時間を超えるものかもしれない、と思わせてくれた。

「一度きりの大泉の話」  萩尾望都

 萩尾望都は、竹宮惠子の「少年の名はジルベール」が出版されなかったら、この「一度きりの大泉の話」は決して書かなかったようだ。

 引っ越したのは1973年5月です。
 引っ越し後は竹宮惠子と増山法惠さんとは交流を経ってしまいました。考えると苦しいし、眠れず食べられず目が見えず、体調不良になるからです。忘れていれば呼吸ができました。体を動かし、仕事もできました。前に進めました。

 そのまま、竹宮惠子とは関わらないように、作品も決して読まないような年月を重ねてきた。その間に、萩尾望都は、自分の作品を生み出し続けてきた、ということなのだと思う。

 その生活が変わったのが、その「大泉」から、50年が経ち、竹宮惠子が「少年の名はジルベール」を出版した頃だった。

   考えなければ楽でした。関わらなければ波風も立ちません。何も関係がないままに、全てがゆっくりと過去になり、遠ざかり、このまま静かに仕事をして暮らして行けたらと思っていました。
  それがこの数年、2016年から、急に大泉についてのアプローチがあちこちからやって来て、戸惑っています。正確に言えば、2014年からです。
 静かに仕事がしたいのですが、仕事に支障が出ています。

 竹宮惠子の「少年の名はジルベール」は2016年に出版され、萩尾望都にも送られたが、読むこともできずに送り返すことになっている。同時に、その頃から増えた「大泉」に関する問合せや、「大泉」についての仕事の依頼の話などの全てを断りたい。元の静かな生活に戻りたい。だから、一度だけその話をして、終わらせたい。

 そういう萩尾望都の願いのために、この本は書かれた。ただ、その当時を思い出すだけで、とても苦痛を伴うので、信頼する友人にインタビューをされることで、やっと形になったようだ。

 「大泉」の時代が、終わった時のことは、二人とも書いている。
 竹宮惠子は、自身の気持ちについての描写の後、数行で終わっている。

 それから……。どうしようもなくなった私は萩尾さんに、「距離を置きたい」という主旨のことを告げた。それは「大泉サロン」が本当に終わりになることを意味していた。(竹宮惠子)

 それに対して、萩尾望都は、昨日あった出来事のように長く詳細な表現を続けている。萩尾の気持ちや言葉の具体的な描写などは、実際に本書を手に取っていただきたいが、この時の出来事に対して、萩尾は、こうまとめている。

 私の中で大泉のことは、下井草のあの夜と、いただいたお手紙とセットになっています。大泉だけでしたらよかった。でも、あそこには地雷が埋まっていた。竹宮先生は苦しんでいた。私が苦しめていた。無自覚に。無神経に。
 だから、思い出したくないのです。忘れて封印しておきたいのです。

二人の人。二冊の本

 才能のある表現者2人が、同じ家に住んではいけない。

 それは、漫画界でもずっと言われているようだ。実際に、二人とも深いダメージを負い、特に萩尾望都の傷は、長い年月がたっても、実は、まだ全然治っていないように思える残酷な状態からも、その「言い伝え」は、本当のことなのだと改めて思わせる。

 同時に、こうした自らの苦しみを語る本の中でも、萩尾望都の才能の凄みが、垣間見えるような描写もある。

 私は嫉妬という感情について、よく知りませんでした。
 私だって嫉妬心くらいありますが、恋人を取られるとか、妹ばかり可愛がられるとか、生の人間関係について起こることだと思っているし、それならわかります。
 ある時、「嫉妬という感情についてよくわからないのよ」と山岸先生に話したら、「ええ、萩尾さんにはわからないと思うわ」とあっさりと言われました。
 スポーツなどの勝負事なら、うまい人に嫉妬するのもあるでしょう。バレエや舞台のように主役が一人だけなら、ライバルに嫉妬というのもわかります。だけど創作表現の世界、漫画などはたくさん発表の場があるし、競走や勝敗はなく誰でも好きなことができると思っていたので、ピンとこなかったのです。 


 人と人とのこと。その深さと怖さと、どうしようもなさ。

 それらを、2冊読むと、いやでも突きつけられるように思います。ですので、人であるならば、どなたにでもおすすめできる2冊だと思います。できるだけ、両方の本を読まれることを、さらにお勧めします。



(この2冊に加えて、このライムスター・宇多丸氏と、プロインタビュアー・吉田豪氏の話↓に触れると、さらに、いろいろなことを考えられると思います)。






(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。





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おちまこと
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