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「運」に関する「成功者側」からの視点について。

 自分が歳をとればとるほど、自分自身だけでなく、周囲の人たちの、様々な状況の変化を目にすることが嫌でも多くなり、その上で、成功や失敗というものが、残酷なほど「運」に左右されることが分かってくる。

 そうしたことを、私のように成功していない人間が語るのは説得力がないのは自覚はしているものの、それでも、その人の努力や才能や工夫とは違う次元で、「運」という要素が、大きく作用することを明確にした方が、社会の構造が少しでもフェアになるかもしれない。

 そういう小さい望みを持って書いた文章がある。(自分を正当化する部分もあると思いますが)。

 ただ、これだけだと、どうしても「運に恵まれた成功者側の視点」が欠けているとは思っていたが、ここ10年ほどで、「運」について「成功者側」からの視点が提示されるようになり、個人的には、その中で、特に3人の著書が重要だと思えた。

「実力も運のうち」 マイケル・サンデル

 この著書のタイトルが、「運」がほぼ全て、といったことを表しているし、それを、1冊使って、証明しているような内容になっている。

 例えば、人間にとっての「運」の最初は、どんな親から生まれるかということで、これは、当然だけど選ぶことができない。

 ハーバード大学やスタンフォード大学の学生の三分の二は、所得規模で上位五分の一に当たる家庭の出身だ。気前のいい学資援助策にもかかわらず、アイビーリーグの学生のうち、下位五分の一に当たる家庭の出身者は四%にも満たない。ハーバード大学をはじめとするアイビーリーグの大学では、上位一%(年収六三万ドル超)の家庭出身の学生のほうが、所得分布で下位半分に属する学生よりも多い。

 現代が、高学歴の方が、その後、有利な人生を送りやすいとすれば、そこへ入学するには、より裕福な家庭に生まれるかどうかが、かなり関係してくるということになる。ただ、実際のハーバード大学の学生は、入学までに過酷なハードルがあるせいで、より能力主義に偏っているようだ。

 その傾向は一九九〇年代に始まり、現在まで続いているのだが、次のような信念に魅力を感じる学生がますます増えているようなのだ。つまり、自分の成功は自分の手柄、自分の努力の成果、自分が勝ち取った何かであるという信念だ。教え子のあいだで、こうした能力主義的信念が強まってきたのである。 

 この傾向の問題点は、自分の成功は能力と努力のためと思いすぎると、単に「不運」によって「失敗」のような状況になっている人に対しての差別のようなものが正当化されやすくなる。だから、「実力も運のうち」という視点は、社会がより健全に運営されるために、これから特に必要になることなのだと思う。

 いったいなぜ、成功者が社会の恵まれないメンバーに負うものがあるというのだろうか?その問いに答えるためには、われわれはどんなに頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、ある種の謙虚さが生まれ、こんなふうに思うのではないだろうか。「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなってた」。そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。

「50歳になりまして」  光浦靖子

 基本的に、芸能界は「運」が左右する世界だというのは、外から見ても感じられるし、当事者は、もっとそう思うのかもしれないけれど、全体として、とても正直な作品なので、「運」についても、ベテランの芸人である著者は、きちんと触れてくれている。

 嘘をつくのもなんなんで言いますけど、40代に入った頃からかな?仕事がゆる〜りと減り始めました。テレビの世界に入って、一度も手を抜いたことはありません。なのに減るのです。流行り?運?好感度?
 28年やってても頑張り方すらわからない世界です。でも私は、この世界の物差ししか持ってなくて、仕事がない=価値がない、としか思えなくなってしまいました。自分に満足するもしないも、他人からの評価でしか決められない。このままいくと、私はいつか、壊れるな。どうにかしなきゃ。

頑張り方すらわからない世界」は、辛いのではないかとも想像するけれど、実は、どの世界も、多かれ少なかれ、このことは共通しているのに、「この頑張り方が正しい」と、言い聞かせているだけなのかもしれない、とも思う。

 芸能界は頑張ったからって評価されるもんじゃないですからね。時代とマッチするか、誰に出会えるか、ご縁、運が大きく影響します。 

 それが「常識」となっている世界に生きているとすれば、成功したとしても「運」であると思えるし、うまくいかなかったとしても「運」のせいだと考えられるので、結果が残酷だとしても、ある程度のフェアさが保たれる可能性はある。

「残念なメダリスト」  山口香

 2021年のオリンピック関係者の中で、ほぼ唯一と言っていいほど、筋が通った発言が目立った山口香は、「勝つ理由」についても、こうした考えを著書で述べている。山口自身が、「女三四郎」と言われたほど、柔道界での「チャンピオン」であったから、より意味が大きいと思われる。

では、勝った人とは、どんな人なのか。
最も努力した人……だろうか?
一般的にはそう思われているかもしれない。
だが、たくさん努力をしたからといってメダルを手にできる保証はどこにもない。
メダリストになった人の何倍の努力してきた人は、周囲にごろごろいる。
そんなことは、メダリスト自身もよく知っている。
もちろん私も、そのように努力してきた人たちを何人も見てきた。
そうした経験も含めて断言するなら、「最も努力した人間がメダリストになったのではない」ことの方が多いということだ。別の言い方をするなら、「誰にも負けないほどの努力を重ねても、メダリストになれるわけではない」ということだ。スポーツとは基本的に、そのように理不尽なのだ。

 スポーツは、最も実力や努力がものをいう世界、少なくとも強さが、そのまま結果につながりやすいと考えてしまう。だが、「チャンピオンという成功者」が、「幸運」が大事と断言する。それは、勝者が奢らず、敗者が卑屈になりすぎない世界ではないだろうか。

 人はスポーツに夢を見る。努力は報われると信じたい。
 実際にはスポーツも社会の縮図だ。メダリストになれたとしたら、それは幸運だったとしか言えない。
 自分よりも実力がある選手、才能のある選手、努力してきた選手たちは、いつの時代にもたくさんいる。その中で、オリンピックや世界選手権といった大舞台でメダルを手にしできたのだとしたらーーー。
 それは、運良く自分の手の中に落ちてきてくれた贈り物だ。
 とびきりの「運命をいただいた」ということだ。
 そう考えるのが、正確な現状認識というものだろう。
 メダリストをエリートと置き換えることができるかもしれない。社会でエリートになってもよい人とは、まずはそうした自己認識ができる人だろう。
 そのことに気づき、巡り会えた幸運と素直に向き合える人だ。
 メダリストになった瞬間から、メダリストになるための努力と学びに精進できる人だ。

 これは、マイケル・サンデルの言葉と、とても似ている。そして、チャンピオンや、メダリストが、このような姿勢を続けてくれれば、スポーツ界も変わるし、社会も変化すると思う。

運と成功

 学問、芸能、スポーツ
 それぞれの世界で、十分以上に成果を出している人たちが、「成功」するには、「運」が必須、ということを、多少の表現の違いはあっても、共通して述べているように考えられる。

 おそらく、この人たちは、山口の言い方を借りれば「本当のメダリスト」と言っていい存在なので、こうしたことを率直に述べられるのかもしれない。ただの「成功者」であれば、「運」の話は最小限にして、自身の「才能」や「努力」を語りがちに思えるからだ

 ただ、こうした「運と成功」との関係が常識になれば、過剰な自己責任論によって、追い込まれる人が減るように思うのだけど、どうだろうか。

 
 「実力も運のうち」は、決して奇をてらった言葉ではなく、本当のことであるという視点が、これから社会に広がっていった方が、おそらくは生きやすい社会になっていくと思う。





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