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読書感想  『娘が母を殺すには?』   「歴史と知性の有効な使い方」

 自分が住んでいる地域の図書館予約のシステムがあって、一人当たり12冊まではリクエストができる。登録すれば、同じ区内に蔵書があれば、直接出向かなくても、インターネット上の操作で、読みたい本をお願いできる。

 その中には、場合によっては100人を超える予約者がいて、だから、その書籍が「準備できました」と言うメールをもらう頃には、いつ、どんな動機で読もうと思ったのかを、失礼なことだけど忘れていることもある。

 そして、図書館に行って、書籍などを返して、借りてくる。
 
 自転車で10分弱だけど、最後は坂道を登らなくてはいけないし、できたら返却期限の2週間後にまた来ようと思って、家に戻るけれど、その数日後に、予約していた書籍が届くこともある。その書籍に、次の予約も入っていなければ、取り置き期限を延長することもできるけれど、予約があると、1週間以内に借りに行くことになる。

 とても勝手なことだけど、そうなると、図書館に行く回数が増えて、ちょっとおっくうな思いを抱いたりする。この作品も、予約してから1ヶ月ほどで取り寄せてもらって、図書館に行った2日後くらいに、準備ができましたとお知らせをもらったものだった。

 だから、この1冊のために図書館へ行き、借りて、家に戻ってきた。

 テーマは難しそうだし、考えながら読むことになりそうで、読むのに、時間がかかってしまいそうだったのだけど、気がついたらほぼ1日で読み終えるくらい、自分としては珍しく早く読み終えた。

 それは、著者の、重く感じさせない覚悟で、道を開いてくれている内容だったからだと思う。


『娘が母を殺すには?』  三宅香帆

 本書で主張したいのは、古来多くのフィクションが、息子の成熟の物語として「父殺し」を描いてきたように、娘もまた精神的な位相において「母殺し」をおこなう必要があるのではないか、ということだ。

(『娘が母を殺すには?』より。以下、引用部分は同著より)

 自分自身は、息子という立場しか知らず、子どももいないので、父親である気持ちもわからない。だけど、娘であった母親や、妻のことを見てきたけれど、その母親との関係の難しさと複雑さがあるのは感じてきた。でも、そうしたことと、やたらと距離を取りすぎたり、わからないと思いすぎたりするのも、変というか、失礼ではないか、といった気持ちもあった。

 だから、「父殺し」だけではなく、精神的な「母殺し」が必要、という著者の主張も、どこまで理解しているかは別としても、とても賛同できるように感じた。だけど、本書の冒頭で、この主張をして、大丈夫だろうか、と読者として勝手に少し心配になったのは、やはりテーマが大きいように思ったせいだ。

 ただ、そんなことは著者は当然の前提とするように、第一章は『「母殺し」の困難』がテーマに掲げられている。そして、その最初が「1 母が私を許さない」という、おそらくはその核心的な部分から、ためらいなく始められているように思える。

「娘」たちは、幼少期から母によって、「それは世間が、ゆるさない」「そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ」と、呪文のように唱えられる。経済的に自立しても、結婚しても姓が変わっても、母の介護を担当するような年齢になっても、繰り返し、繰り返し。そして、その呪文は、「母」から「娘」に受け継がれていく。

 この「許さない」という感覚的なものが、もしかしたら、「息子」には実感としては、わかりにくいものかもしれない。

 娘の欲望が、母の与えた「規範」から逸脱するとき------娘が自らの欲望を満たそうと行動を起こすとき、母の許しが必要になる。しかし母は往々にして、娘の「規範」からの逸脱を許さない。このプロセスを繰り返すうちに、やがて娘は母の規定の範囲内でのみ、欲望するようになる。 

 これは、とても重要なことで、しかも断言するのに戸惑いを持つようなことに思えるのだけど、著者はスッと、重さを排除するように断言する。そのことで、視界は開けやすくなるのだけど、それがフィクションの量と質の蓄積を自分のものとしてきた成果なのだろうか、と思わせる。

 父が息子に「強くあれ」「自立して稼げ」「出世しろ」といった規範を与えるのと同様に、「女らしくあれ」「勉強を頑張れ」「自分の言うことを聞いてくれ」と、母は娘にさまざまな規範を与える。成長の過程で、息子は「父殺し」をおこない、その規範を打ち破る。ならば娘も「母殺し」をおこない、その規範を無効化する必要がある。

 だが、「父殺し」についてはフロイトが詳しく語ったのに対し、「母殺し」について点検する批評は圧倒的に少ない。

 これは指摘されてみれば、本当にそうかもしれない、と思い当たる。同時に「父殺し」はこれだけ言われてきて、「母殺し」は、どうして、それほど考えられてこなかったのだろうか。読者に、そういう思いを抱かせるのが、著者の狙いでもあるのだろうけど、その通りに自分の気持ちも進んでいった。

 「父」は強さで子を支配するが、「母」は愛情で子を支配するということである。(中略)強くなれば倒すことができる「父」の規範と、愛情を拒否することでしかそこから逃れられない「母」の規範とでは、大きく性質が異なる。  

 そうしたことも言われてみれば、そうだとしか思えなくなってくるし、だから、「母親」の規範を手放すのは難しいということも、息子という立場の人間にとっても、再検討するようなきっかけまで作ってくれている。

 さらに、ノンフィクションの傑作でもある『母という呪縛 娘という牢獄』という、本当の「母親殺し」についてまで触れているためらいのなさ、その距離感の冷静さは、やはり改めて驚きを感じさせてくれる。

 滋賀の母親殺害事件の犯人は、なぜ「私の行為は決して母から許されません」と書いたのだろう?
「父殺し」の構図を点検してきたいまなら、回答することができるだろう。彼女はずっと、「母の許す範囲で行動しなければいけない」という規範のなかで生きていたからだ。だから殺人を犯してなお、母に許されるかどうかを気にしていた。
 そこで本書では、「母の規範を手放すこと」を「母殺し」と定義したい。

(『娘が母を殺すには?』より)

 この重い事件に関して、ここまで端的に指摘し、分析した人を、自分の狭い範囲の経験にすぎないが、見たことがなかった。

 だけど、困難な出来事に出会ったとき、わからない、難しい、と言い続けるのは、誠実な部分もあるかもしれないが、断言する覚悟が足りないことで、読者の視界を晴らすのを難しくさせる場合もあるはずだ。そんなことを思わせるほど、著者の定義の明確さは際立っているように思えた、

歴史の蓄積

 小説や漫画など、フィクションすべてを自在に引用し、分析し、そして著者の論はとどまらず進んでいく。

 たとえば、「2 母が死ぬ物語」では、「イグアナの娘」「砂時計」「肥満体恐怖症」といった作品が紹介されるが、「イグアナの娘」と「砂時計」は、母が死んで、そのことで母の規範を手放す話と指摘したあとに、「肥満体恐怖症」について、こうした表現になる。

 母が死んだのちに、娘が母の規範を手放すのではなく、逆にいっそう母の規範を受け入れようとする「母が死ぬ物語」を紹介したい。

 同じような物語の構造であっても、その違いまでを細やかに分けているので、こうした分析↓にも説得力を加えているように感じる。

 ここに「母殺し」の困難さの本質がある。

(中略)母の規範の内部にいることは、娘にとって決してつらいだけのことではなく、気持ちいいことでもある。そして社会も、そのような母娘像を礼賛する。だからこそ「イグアナの娘」や『砂時計』のように、母が死ぬことでもない限り、娘たちは母の規範から脱出するきっかけをつかめないのだ。 

 そして、『3 「母殺しはなぜ難しいのか?』では、戦後の社会情勢を、信田さよ子の心理学的な視点からの見方も取り込みながら、振り返っていく。

戦後日本の専業主婦文化が生んだ母娘密着

①夫婦のディスコミュニケーション ← 男性の長時間労働
②娘の経済的/育児リソースの貧しさ ← 女性の非正規雇用率の高さ
③母のキャリアに対する罪悪感 ← 専業主婦システム

 母と娘が密着しやすい原因は、戦後日本の中流家族モデルにおける性別役割分業の固定化、つまりジェンダーギャップが生み出したものだった。

 なぜ「息子」は家庭から逃げられるのに、「娘」は逃げられないのか。この問いの答えは、「娘」と「息子」で、家庭における扱われ方=与えられる規範が異なる点にある。

 「娘はしっかりしているから、弟や妹の世話を任せられるけど、息子はいつまでもバカで頼りない。しかしそこがかわいい」と語る親は、いまだに多いのだという。

⑴ 母が夫より娘にケアを求めてしまうこと
⑵ 娘の経済的自立が困難なこと
⑶ 娘が母の人生に負い目を感じやすいこと
⑷ 娘は息子より「しっかりした子」であり、親と対等な存在として育てられやすいこと

(『娘が母を殺すには?』より)

 ごく基本的なことを考えれば、新しく生まれた人ほど、歴史の蓄積を利用できるはずだ。著者は1994年生まれ。文芸評論家の中では、若いはずだ。その分、読んでいる分量では、年長者に劣りそうなのだけど、これまでの文芸の歴史を存分に生かしているように感じる。

 それは、もしかしたら、幼い頃から、とんでもない量の作品を読み続けてきたということなのかもしれない。そのことで歴史の蓄積を、より新しいものまで生かしている、ということなのだろう。

 読み進めるほど、そう思えてくるが、それは、やっぱりすごいことなのだと思う。

知性の使い方

 第一章「母殺しの困難」は、50ページで終了する。このテーマだけで、もっと分量が必要な気もするのだけど、不足している感じもしなかった。

 そして、第二章「母殺しの実践」は、1970年代から、2010年代まで、萩尾望都、山岸涼子、川上未映子、藤野可織、らの「母殺し」に関係あるフィクションを紹介しつつ、その時代による注目された言葉も並列させていく。

 自由な母、アダルト・チルドレン・ブーム、母性信仰、母への嫌悪、毒親---。

「母殺しは可能か?」という大きいテーマを見失わないまま、フィクション、ノンフィクションの作品だけではなく、心理学医学社会的な流行などの要素にも触れつつ、この「母殺しの実践」の章は、これだけ膨大な情報を盛り込みながらも、70ページ弱で、終了する。

第三章「母殺しの再生産」

 この章では、角田光代、吉本ばななの作品における「母殺し」について語り、高い評価をしながらも、同時に違和感も提出する。さらには、20ページほどだが「父の問題」にまで触れ、こうした大事な指摘までしている。

 初恋のような関係でもなく、母性に頼ることなく、大人の男女が夫婦として言葉を届け合う様子は、描かれないのだろうか。いま私たちが求めているのは、対等な夫婦のコミュニケーションが成立している家族の物語であるはずなのに。

(『娘が母を殺すには?』より)

 それだけ盛りだくさんで、やはり50ページほどで、第三章をまとめている。こうしたことまでできるは、知性を有効に使っている成果だとも思う。

「母殺し」のプロセス

第四章 「母殺し」の脱構築 

 そして、最後の章では、「母殺し」の、実社会での実践にまで話が至る。

 「母殺し」に必要なのは、母と娘の二項対立の世界から、母娘以外にも誰かが存在している世界に移行することだ。

(『娘が母を殺すには?』より)

 この章でも、様々なフィクションが扱われる。

『愛すべき娘たち』、『私ときどきレッサーパンダ』、『娘について』、『最愛の子ども』。

 それと同時に、《母殺しのプロセス》という具体的な話にまで至り、第四章も、50ページほどでまとめられていて、それで、この作品は終わる。

 (精神的な)「母殺し」という難しいテーマを、膨大な作品に触れながら、全部で230ページ足らずで、読者が実践できるレベルまで話を進め、そこにかなりの無理がある感触もなく、何かが不足している感じもなかった。

 それは、著者は、「本書は」という主語を繰り返し使っていて、この本は、数限りない作品をもとにして書かれていて、その力を借りているから可能になった、ということを示しているようだし、「本書は」という表現は、自分の書いていることとも適度に距離を取れている証拠のようにも思え、だからこそ、この分量で、難しいテーマに対して、一応の結論を出すことによって、次(の書き手や読者)につなぐことにも成功していると思う。

 これだけの要素を取り入れながら、長くなりすぎず、しかも、テーマを見失わずに、結論まで進めるのは、知性の力を有効に使っているからだろうし、その文章の背景に自分の知性文芸の歴史への信頼のようなものがあるから、読者にも不安を生じさせないのかもしれない。

 違うジャンルの書き手だし、勝手で個人的な連想に過ぎないけれど、『東京都同情塔』を書いた九段理江と似ているように思えた。


 母との関係に悩む娘の立場の人。
 娘とどう接したらいいのか、わからなくなっている母親の方。

 さらには、人間関係につまずきがちなすべての人にも、おすすめできると思いました。

 もちろん、読書が趣味といえる人にも手に取っていただける価値があるはずです。


(こちらは↓、電子書籍版です)。



(他にも、いろいろな作品について、書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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