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「世の中、きれいごとだけじゃ生きていけない」は、どこまで本当なのだろうか?

 世の中、きれいごとだけじゃ生きていけない。

 そんな言葉は、若い頃から聞いて、大人になってからも耳にして、それからかなりの年月がたって、すでに、自分より若い人たちに、そんな教訓のようなことを(望まれていないかもしれないけれど)場合によっては、言わなくてはいけない年代になった。

 そんなふうに時間が流れたのが、時々、信じられないような思いになる。

 そして、もしかしたら、気がつかないうちに、偉そうに、分かったような教訓を誰かに言っている可能性もある。そう思うと、恥ずかしさもあるものの、それでも、かなりはっきりしていることがある。

 社会は、きれいごとだけじゃ生きていけない、というようなことを、特に自分よりも歳が若い人に、言ったことはない。と思う。


清濁併せ呑む

 個人的な経験でも、きれいごとだけじゃ生きていけない、とセットで語られるのが「清濁併せ呑む」という言葉で、それもあまり使ったことはない。

 辞書によると、この「清濁併せ呑む」というのは、こうした表記になっている。

清濁
君子と小人。善人と悪人。(―あわせのむ[度量が大きくて、どんな人でも受け入れる])

(「新明解国語辞典」より)

 辞書をひき、長年この言葉を自分自身が誤用して嫌っていたのに気がつき、そこで恥ずかしくなるが、ただ、自分の狭い範囲の経験で言っても、この本来の、人を統治する側の「君子論」のような意味合いでなく、処世術のように言われてきたような印象があったから、使ってこなかった。

正義感だけではダメ!
時には「清濁」併せ呑める人間に!

(「DIAMOND  online」より)

 このように「清濁併せ呑む」は、「君子論」的な意味合いではなく、実際には、こうしたタイトルで象徴されるような場面で使われてきた印象が強い。

 例えば、まだ若く正義感が強い人間が、組織の論理に対して、その不合理に対して異議を申し立てる。周囲の、さらに大人たちは、それを正面から責めはしないけれど、まだ若いから、清濁併せ呑めないんだ、と、その未熟を微笑ましく見守る、といったことは繰り返されてきた印象がある。

 だから、本来の「清濁併せ呑む」は、ある種の理想的な存在のことを語っていたはずなのが、そこから、「生きていくにはきれいごとでは済まない。だから、多少の悪いことや、ずるいことは必要なんだ」という方向に誤用されていることの方が圧倒的に多く、その印象は、おそらく多くの人とも共有できる感覚だとは思う。

 ただ、このことを社会を生きていくには当然と思う人と、私のようにずっと抵抗感を持つ人間に分かれるのかもしれない。

 そして、おそらくは少数派で、しかも無力かもしれないけれど、今でもこんなふうに思っている。

 世の中はきれいごとだけじゃ生きていけない。それは本当かもしれない。でも、それは正しさを実現するのは難しいことを言っているだけで、最初から、きれいごとと言われている内容を、諦めていい、とは違うのではないか。

だんだん正義を失う

 おそらく現代の、特に日本社会では、「清濁併せ呑む」という中国の故事での、いってみれば理想的な君子の話が、「世の中、きれいごとだけじゃ生きていけない」といった処世術として使われ続けてきたのは、事実だと思う。言い訳になるけれど、そのことで、私自身も「清濁併せ呑む」の本来の意味合いを知らないままだったのかもしれない。

 そして、同時に、この「清濁併せ呑む」に関しては、一種の神話のような見られ方もされているように感じてきた。

 若い頃は、正義感が強く、社会や組織の不正やずるさに対して嫌悪感を持ち、「濁」に関しては、拒絶感を持っているが、生きていくためにはきれいごとだけじゃ済まないことに気がつき、「清濁併せ呑める」大人になっていき、社会的にも有用な存在になっていく。

 つまりは、若い頃は純粋で正義感に従っているが、それだけでは、ダメなのだと悟って、「清濁併せ呑む」ようになっていき、そのうちに、自分が若くなくなって、自分と同じような若い人間に「清濁併せ呑む」ことを、薦めるような人間になっていく。

 こうした、歳を重ねるごとに、だんだん正義を失っていく。というイメージは、本当だろうか。

素質

 実は、まだ個人的な仮説にすぎず、しかも、それこそ偏見になっている可能性もあるのだけど、このように、大人になって「清濁併せ呑む」を多用する人に対しては、実は一つの傾向があるのではないか、と思っている。

 多用するだけではなく、この言葉を使うのが好きな人は、だんだん正義を失っていくのではなく、若い時から、「清」という正義ではなく、「濁」に象徴される部分の割合を比べたら、「清2:8濁」なのではないだろうか。

 そして、おそらくは現代の日本(だけではないかもしれないが)社会では、そうした人の方が、何かをするときにためらいが少なく、それだけに有能と評価される可能性が高そうだから出世もしそうで、だから「清濁併せ呑む」を多用し、今も、この言葉がまだ常識になっているのかもしれない。

 だから、だんだん正義を失っていくのではなく、すでに、かなり若い段階で「濁多め」の人が、この「清濁併せ呑む」や「世の中は、きれいごとだけじゃ済まない」と繰り返し語っているような気がする。

 それこそが素質に関わる部分なのだと、年齢を重なるごとに思うようになった。個人の狭い範囲で、さらにはどこまで見えているか、といった私自身の能力にも関係があるとはいえ、「清濁」の割合については、素質であって、多少の変動はあっても歳を取っても変わらないように思っている。

 だから、「清濁併せ呑む」や「きれいごとだけじゃ済まない」を多用する人は、自分にとって有利で楽な思想を語っているかもしれない、と疑った方がいい。

 そんなことを思うようにもなった。

きれいごとだけじゃ済まない

 若いときから、かなり数多く聞いてきたような気がするのが、この「きれいごとだけじゃ済まない」で、もう少し強めに言われる場合は「きれいごとだけじゃ生きていけない」だった。

 私自身も、人としての正しさをそれほど備えているとは思えないけれど、例えば、仕事のことで、関わる相手のことをもっと考えた方がいい、とか。品質を上げるために、ややこしくてもできることはあるのではないか、とか。それはウソになってしまうから、ダメなのでは、とか。その対応は、先方に失礼になるから、その仕事は断りたい、とか。

 そんな、それほど「きれいごと」とは思えないレベルでも、「きれいごとだけでは済まない」と言われてきた。特に若い頃に、そうしたことを言われると、相手は、自分よりも年上の人が多かったから、自分も歳を重ねたら、同じことを言うようになるのだろうか、と思っていたら、そうはならなかった。

 ただ、同時に、少しでも真っ当なことをしたい、と思っていたのだけど、それでなんとかできる能力が足りなかったせいか、ずっと貧乏なままなので、大きなことは言えないけれど、それでも、今もそれほど考えていることは変わっていない。

 それは、本当に辛いことや、大変な目に遭っていないという意味で恵まれているのかもしれないけれど、「世の中、きれいごとだけじゃ済まない」には、その続きがあって、その方が重要だとも思っている。

 ----- もちろん、人間の世の中がきれいごとだけで済むわけはない。特に、2023年の現在では、本当にそれどころではない世界になっている。それについては、とても無力で、自分でできることをしていくしかない。だから、大きなことを、何か変えることは、個人ではとてもできないのは前提として、そしていい意味で分を知りながら、できることをしていく。

 だから、全部がきれいごとでできないとしても、できる限り、真っ当な方法を選べるために、自分の能力を高めていく。それを続けていけば、時間が経つほどに、より真っ当なことができる可能性も高くなる。

 それを諦めないのが、大人のやるべきことだと思う。

 そう思って、未熟で、成果も出せないまま、歳をとってしまったので、恥ずかしさもあるし、時々、サボってしまうけれど、そのことはできたら忘れないようにしたい、と思っている。

不正事件

 ここ何年も、自動車メーカーの不正が明るみに出ることが多くなっている。

2016年以降、自動車メーカーの検査不正が頻発している。三菱自動車、日産自動車、スズキ、スバル、マツダ……。2022年にはこの不名誉なリストに、新たに日野自動車が名を連ねた。

日野が不正をしていた検査のうち、商用車向けの排ガス性能の耐久試験は、長距離を走っても排ガス性能が大きく劣化せず基準以上を保てるかを測るものだ。日野はこの耐久試験で、試験データの書き換えや、試験をせずにデータを捏造するなどしてきた。試験途中で排ガスの処理機能があるマフラーを交換したこともあった。

(「東洋経済」より)

 検査は、クルマという、凶器にもなり得る物体の安全性をより高めるために必要なことだと、一消費者としては思っている。この検査に不正があるとしたら、安全性に問題があるクルマが、その辺りを走っていることを想像すると、やはり怖い。

 そうした不正のために、実際に死亡事故まで起こってしまったのが、「三菱自動車のリコール隠し」だったのは、覚えている。

 こうした経過を振り返ると、最初の破損事故が起こってから、死亡事故まで10年がある。

リコールをせず、違法なヤミ改修で対応した理由として、下記が指摘されている。
○ リコールすれば莫大な費用がかかり、成績に響くので、関係部署から市場品質部にリコール回避の圧力がかかり、それに従わざるを得なくなった。
○ 製造、設計、技術部門などで不具合の原因を作った者は社内処分を受けるので、関係者はその処罰から逃れたがった。
三菱自動車は1970年に三菱重工業から独立したが、三菱グループ向けの売り上げが多い。現在は分離した商用車の三菱ふそうトラック・バスはもちろん、個人を含む乗用車でも同様である。国内販売台数は2003年度は軽自動車23万台を含む約35万8千台であり、その約半分が取引先と家族を含む広義の三菱グループの需要とみられる。日本国民の10人に1人は、三菱グループにつながっている。三菱の名のついた企業がつぶれるはずがないという過信がある。三菱自動車の場合、結果的にそれが甘えにつながり、隠蔽のコーポレートカルチャー(企業体質)になったともいえる。

(「失敗知識データベース」より)

 こうした経過の中で、リコールを訴える社員がいたとしても、「清濁併せ呑む」「きれいごとだけじゃ済まない」「お前も大人になれ」といった言葉がかけられた可能性も高いように思う。

 そして、結果として、こうした事件は企業の信頼も損ない、経営的にも経済的にも莫大なマイナスを生んでしまうのだから、少しでも真っ当にするために努力をした方が、もしかしたら、ここまでの事故につながらなかった可能性はある、と言えないのだろうか。

正当化

 この記事は、2023年のものだけれど、おそらくは、実際の不正があったとされる自動車メーカーの内部でも、似た論理が語られていたように思う。長く技術専門誌に関わってきた筆者は、政治記者が政治家の発想に似てくるように、自動車業界の思想と相似形になってくるのかもしれない。

筆者は日本の製造業の品質問題について、20年以上前からウオッチしてきているが、最初に指摘しておきたいのは、こうした品質問題の多発が、即、日本のものづくり現場の劣化を意味するわけではないということだ。その理由は、主に4つに整理できる。

1つ目は、そもそも「品質問題はゼロにはできない」ということだ。今日の製造業の前提として、どんなに注意深く製品開発・製造をしても、不備や欠陥を完全に排することはできない。

第2に、単なる「欠陥」や「不良」を超えた、いわゆる品質「不正」と言われるような問題は、多くの場合、技術の問題ではなく経営の問題だということだ。2000年に発覚した三菱自動車工業の「リコール隠し」や、同じく三菱自動車で2016年に発覚した「燃費不正」は、いずれも開発現場に十分な経営資源を配分していなかったにもかかわらず、実現の難しい開発目標を掲げさせたことが、結果として不正に手を染める原因になった。

また日本企業で起きる「品質問題」の類型のひとつに、「ルールの形骸化」がある。典型的な例が、前掲した日産自動車やスバル、スズキの完成検査工程での不適切行為だろう。これは、資格のある作業員しか完成品検査は行えないにもかかわらず、実際には資格のない作業員が実施していたというものだ。1990年代には既に常態化していたというこの問題だが、実はこれに起因する品質不良は報告されていない。つまり、検査工程の自動化が進み、実際には無資格の者が行っても何ら問題ないものとなっていたのである。だからこそ現場でも問題視されず、常態化していたのだろう。

最後に指摘したいのは、品質ルールの厳格化は必ずしも品質向上につながらないということだ。

(「web CG」より)

 現場は悪くない。

 この記事は、そんなことを主張しているようにも思えてしまうし、死亡事故まで起こしてしまった責任の重さについては触れられていないようにも感じる。

 それでも、この記事は、特に自動車メーカーの人からは、支持を受けそうにも思える。

 これまで、こうしたメーカーの「不正事件」の報道を聞くたびに、その不正の期間の長さが気になってきた。この記事の中でも不正な検査が、「1990年代に既に常態化していた」と指摘されているが、でも、「品質不良は報告されていない」(これ自体も、今になれば疑ってしまうが)ことで、問題が深刻に受け止められていなかったようだ。

 でも、自らが不正に手を貸しながら、20年以上も、その企業で働くという気持ちは、どうだったのだろうか。それは、不正とは言えない。品質には問題がない。さらには、このことと品質の劣化とは関係がない。前出の記事の内容のようなことを思いながら、働き続けていたのだろうか。もしくは組織の中で正当化をしながら、働き続けていたのだろうか。

 そうした現場の人の気持ちに関しては気になるけれど、ただ、日本の経済が停滞した30年と、こうした、目の前の不正に目をつぶって、自らを正当化するような姿勢と、本当に関係がないのだろうか。

 それでも、もしも自分自身が、こうしたメーカーに勤め、不正に気づいたとしても、毎月、給料が払われ、結婚もし、子どもにも恵まれ、さらには家を建ててローンまで組んでいたとしたら、その不正に対して、断固として摘発するようなことができるのだろうか、と思ってしまう。

 この社会に何十年か生きてきて、でも、介護だけに専念して10年くらい社会から離れてきた年月もあったから、人よりも社会に疎いとしても、できるだけ真っ当を目指すことに対して、冷笑を浴びせるような風潮が、元々強いと思う。さらに、人が見ていないとしたら、そこでも自らの正しさに従って行動するような姿勢に対して、多くの人が尊重するような気配も薄いように思う。

 だから、「清濁併せ呑む」が「きれいごとだけじゃ済まない」につながり、あきらめと無力感がより広がりやすい社会になっているのではないだろうか。

 それが、目の前の「不正」に対しても、抵抗する気力を奪っているような気もする。

これからの「清濁併せ呑む」

 それでも、変化の気配もある。

若者の社会に貢献したいという心理は「ウェルビーイング」という概念が大きく影響していると筆者は考える。 

「社会貢献につながるような消費をしたい」という意識がコロナ禍を通して強くなったのではないかと、筆者は考える。

イミ消費における消費者の関心は、「環境保全」に限らず、「地域貢献」「フェアネス(正義)」「歴史・文化伝承」「健康維持」なども含まれており、商品選好時に、そのような付帯価値へ対価を支払うことによって、充足感や貢献感を得ようとする消費行動であるといえるだろう。

(「あの新入社員は、なぜ歓迎会に参加しないのか」より)

 こうして若い世代の意識が「社会に貢献したい」という思いが強かったり、消費の際も「地域貢献」「フェアネス(正義)」を価値として重視するようになったのは、希望といっていい事だとも思う。

 それは、やっと「清濁併せ呑む」や「きれいごとだけじゃ済まない」といった思想から遠ざかる兆しのようにさえ思えるし、もしかしたら、そうした「きれいごとだけじゃ済まない」といった思想が、今の社会の停滞につながっていることを、若い世代ほど気がついている可能性もある。

 そうであれば、今後、多様性が尊重され、「清濁併せ呑む」の元々の意味、[度量が大きくて、どんな人でも受け入れる]を、本当の意味で生かしてくれる社会になるかもしれない。

 とすれば自分自身も、これまで無力で何の成果も出せなかったといえ、今後も出来る限りの努力を(それほど無理はできないけれど)続け、なるべく長く生きて、いい意味で、変わった社会を見たい気持ちはある。

 それは、やっぱり希望だと思う。



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おちまこと
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