とても個人的な「平成史」⑫「ベルリンの壁崩壊」で、見えた気がした希望。
平成が始まったのは西暦でいえば1989年で、世界的にも様々な大きい変化が訪れていた。
中でも個人的にもインパクトがあったのが、長年、アメリカ陣営VSソ連陣営による「東西冷戦」の象徴の一つでもあった「ベルリンの壁」が崩壊したのが、この1989年だった。
それは、これから世界はよくなる、といった希望が確かに見えた出来事だった。
(他にも国内的にも変化の年だったことを、見事に表現しているのが、橋本治の「89」だと思います。その時を知らない人にも、新鮮に読めると個人的には思っています)。
1989年12月 天使の像
1989年の年末にベルリンへ出かけた。
11月に「ベルリンの壁崩壊」といわれる出来事が起きたばかりだった。友人に誘われなかったら行かなかったと思うが、考えたら、「ベルリンの壁」についても、とても有名な象徴的な建築物でもあったのだけど、恥ずかしながら、そんなに詳しく知っているわけではなかった。
それでも、初めてのプライベートな海外旅行だった。
1989年の12月26日に成田をたち、ロンドン経由で、ベルリンに入った。
ベルリンの壁は、有名だから、適当に行ってもわかるのではないか、と思っていた。だけど、道もよく分からないし、ドイツの地元の人につたない英語で尋ねると、みんな親切に教えてくれた。時々、教えてはくれるけれど、間違った情報も少なくなく、「知らない」を言わない人が多いのかもしれない、などとも思った。
それでも、なんとかバスに乗り、ブランデンブルグ門のそばに行けばいいらしいというのは分かった。だけど、どのバス停で降りたらいいのかは不明のままだ。
不安なままバスは走っていたが、窓からキラリと光るものが、一瞬、見えた。
「あれだ」と思った。
映画「ベルリン・天使の詩」は、その頃の自分には退屈だったけれど、そこに嫌というほど何度も出てきた天使の像があって、それは金色でブランデンブルグ門のそばにあったはずだった。
バスを降りる。天使に向かって歩く。
金色の天使は翼を広げ、青い空をバックに立っている。天使が背を向けた方向へ真っ直ぐに道をたどる。
そこにブランデンブルグ門があった。
その前に壁がある。
1989年12月27日。初めてベルリンの壁を、目の前で見た。
ベルリンの壁
壁は、まだ壁のままだった。
壁崩壊のニュースを見たせいもあって、もっと全体がガレキみたいになっていると勝手に思っていたが、ところどころに穴が開いているけれど、しっかりと壁として、そこにある。
ブランデンブルグ門のそばに壁がない部分があり、人が通っている場所が2カ所ある。
東から西へ。西から東へ。
どちらも一方通行だった。
そこにいる兵士らしき人に、何かを見せて、通過しているから、おそらく市民だけが通れるのだろう。日本のパスポートでは通してくれなかった。
東ベルリンから、西ベルリンへ抜けるために、壁に向かって、とても長い行列もできているらしい。それでも以前と比べたら、こんなに行ったり来たりできることは、夢のような光景のはずだった。
壁のカケラ
西ベルリン側では、壁を削る人が大勢いる。
ハンマーとノミを持ち、笑顔で削っている人は、この門の近辺だけで100人くらいはいるように見えた。
5歳くらいの男の子が真剣な顔つきで、ノミで壁を削る男性のうしろ姿を見つめて、立っている。削った壁のカケラがとんだ。男の子は、素早く駆け寄ると、そのカケラを拾って、うれしそうに笑いながら、小走りで去っていった。
壁を触ってみると、当たり前だけど、硬い。そこに落ちていた石で削ってみると、小さなカケラだけが下に落ちる。
28年間、ここに壁はずっとあったはずだった。
壁のそばでカケラを売る少年がいる。小さい机の上に並べてある。15歳でベルリン生まれらしい。10㎝×15㎝くらいの大きさで、15ドイツマルクの値段がつけられている。高いのかもしれない。買おうとする人は、ほとんどいなかったし、自分でも削れると思われているのかもしれない。
チェックポイント・チャーリー
西ベルリンから東ベルリンへ抜けるには、歩いていくしかなくて、そのために「チェックポイント・チャーリー」という検問所を通らなくてはいけない。
私たちは、東へ抜けて、そのままプラハへ向かう列車に乗りたかったが、国境にいた兵士には、「今日中にここへ来て、西ベルリンへ戻らなくてはいけない」と言われた。西ベルリンでしか列車に乗れなかったようだけど、不合理に感じた。西ベルリンから東ベルリン。東ベルリンから西ベルリンに戻って、そこから列車に乗るだけで、1日が終わってしまうような気がした。
それでも、当然だけど、以前よりは楽になったはずだった。検問所の「X線透視機」も使われずに置いてあるだけだったし、強制両替もなかった。
東ベルリンに行ってから、西ベルリンへ戻るために、再び、チェックポイント・チャーリーに来た時は夜になっていた。
列に並んでいたら、すぐ前にワインを一本だけ持った金髪の若い女性がいた。目があったら、少し微笑んでくれた。検問所の兵士にも、持っているワインを見せて、同じ笑顔を向けていた。兵士も笑っているのが見えた。
これから世界は良くなる。そんな希望を確かに感じた。
混沌の21世紀
そして、東西ドイツは、翌1990年には再統一された。
あの束の間の、大きな高揚感をもたらした時期、一九八九年の出来事です。一九八九―九〇年には、そうです、世界は本当に変わりました。しかも、これはよい方向への変化だと人々は思いました。(スーザン・ソンタグ)。
だが、1991年には湾岸戦争が起こり、21世紀に入ったばかりの2001年には、アメリカで同時多発テロが起こってしまった。
一九八九 ― 九〇年、いやまさに、生涯でこんな感激を味わえるとは思いもよりませんでした。ところが九〇年半ばにはもう、一時は歓迎されたソ連の崩壊以降の諸問題がいかに重大なものか、認めざるを得ない事態になりました。そして、最初に私が言いたかった点に戻ります。世界にはいまや、唯一無比の帝国が君臨しているのです。(スーザン・ソンタグ)。
この発言があったのは、2000年代の初頭だったが、2020年代になった今は、「よい方向への変化」の予感を感じることさえ、さらに難しくなっているように思う。
今は、「分断」がキーワードになるような混沌した社会になってしまい、1989年に感じた希望が、文字通り、うすいのぞみ、だったことを、思い知らせられるような時代になっている。
そして、2019年には平成が終わった。
「とても個人的な平成史」について
すでに30年以上前に終わっている時代にも関わらず、「昭和らしい」とか、古くさいという意味も含めて「昭和っぽい」みたいな言い方は今だに聞くことはありますが、「平成っぽい」や「平成らしさ」という言葉は、あまり聞いた事がないような気がします。
新しい令和という元号が始まって、すぐに今のコロナ禍になってしまい、「平成らしさ」を振り返る前に、このまま、いろいろな「平成の記憶」が消えていってしまうようにも思いました。
すでに2021年になり、令和も3年となり、平成は遠くなっていきます。だから、個人的にでも「平成史」を少しずつでも、書いていこうと思いました。
私自身の、とても小さく、消えてしまいそうな、ささいな出来事や思い出しか書けませんが、もし、他の方々の「平成史」も集まっていけば、その記憶の集積としての「平成の印象」が出来上がるのではないかと思います。
今回12回目で、私自身の「とても個人的な平成史」は、終了します。
読んでくださり、ありがとうございました。
よろしかったら、他の「とても個人的な平成史」も読んでくだされば、うれしいです。