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読書感想 『「コーダ」のぼくがみる世界 聴こえない親のもとに生まれて』  「知らないことの多さを、知らされる」

 何かを知ると、さらに知らないことの多さが見えてくるような気がして、どんどんわからないことが広がっていくような怖さがある。

 それでもできたら1日に一つでも、新しいことを知るようにしているのは、少しでも違う視点を持ちたいと思っているからだ。

 ただ、知っているつもりで、知らない、というのがもしかしたらいちばん良くないのかも、と思う時もある。

 たとえば、「コーダ」という名称と、その意味するところを知っていたはずなのだけど、それは、自分が知っているとは言えないことを、本を読んで知らされた。

 ただ、著者が、読者に対して、知らないことを責めているのではなく、確かに強さはあるものの、伝え方が柔らかく、何より誠実だと思えた。



(※ここから先は、書籍の内容の引用もあります。何の事前情報も知りたくない方は、ご注意くださればありがたく思います)。





『「コーダ」のぼくがみる世界 聴こえない親のもとに生まれて』 五十嵐大

 たとえば、両親が耳が聴こえず、その子どもは耳が聴こえると、「コーダ」と呼ばれるのは知識として知ってはいるけれど、生まれてから、そして、まだ小さい頃の環境に関しても本当に知らなかった。

 幼少期、小学校に上がる前くらいのコーダの家庭は、時折、「理想的」とも評される。聴覚障害のある親は聴こえる家庭と比べても遜色のないよう、大切な子どものために生活に工夫を凝らす。コミュニケーション不全が起きてしまう可能性もあるため、人一倍、子どもの「声」に耳を傾けようともするだろう。その親子関係には愛情が満ち溢れており、それが理想的と言われる所以だ。

(『「コーダ」のぼくがみる世界』より)

 親が、自分の子どもに対しても、本当に愛情を注ぐといったこと。そして、生まれてきて、育っていく中で、それが続くことは、残念ながら、そんなに多くないことは、自分も含めて誰もが体験として知っている。

 だから、そういう意味では恵まれた環境でもあるのだけど、でも当然ながら、そこにも「困難」がある。という事ではなく、それは、その家の子どもにとっては、やるべきことで、自然な「家事」に過ぎないのかもしれない。

 そのようにたくさんの愛情を注いでくれるふたりにもできないことがあった。それはいつだって、「音」を伴うことだった。 

 役所の人や飛び込みの営業担当者など、両親の耳が聴こえないことを知らない人が訪れたときには、やはりぼくが前に出る。事情を説明し、彼らが話したいことを、音声言語で成り立っている社会からの情報を、聴こえない親に伝える。その行為はまさに「通訳」だったと言えるかもしれない。

(『「コーダ」のぼくがみる世界』より)

 それは、著者にとっても、日常に過ぎないはずだった。

「コーダ」の生活をかえてしまうこと

 幼少期のコーダにとって、親の耳が聴こえないことは当たり前でふつうのことなので、そのことについて、そのことについて特に深く考えることもない。聴こえる家庭の子どもが、「どうしてぼくの親は耳が聴こえるんだろう」と悩んだりしないのと同様に。ところが、そこにちょっとずつ歪みが生じてしまう場合がある。その原因となるのは、他者からの「眼差し」だ。 

(『「コーダ」のぼくがみる世界』より)

 筆者にとっては、学校に通うになり、友人ができて仲良くなり、お互いの家に行ったり来たりするようになり、当然のように、自分の家にも来たときの出来事から「歪み」が生じ始めたようだ。

 自宅に来た友人に、筆者の母親のしゃべり方が変では?と、悪気もなく指摘され、そのことで、その気持ちが揺れ始める。

 このときから、ぼくは母を、そして父のことも、「ふつうではない」と認識するようになっていった。 

 こういった体験を、特異なこととは決して言い切れない。いまでこそ多様性が謳われるようになり、他者との「違い」を認めていこうという風潮になりつつあるものの、ぼくが子ども時代を過ごした80年代から90年代前半は、まだ障害者への差別や偏見が根強く、しかもあからさまだった。障害者が子孫を残さないように、と強制的に中絶・不妊手術を受けさせられる悪法「優生保護法」が1996年まで残っていたくらいだ。もちろん、この恐ろしい法律は聴覚障害者も対象にしていた。
 そんな時代を過ごしたコーダたちは、多少なりとも自身も差別や偏見を目の当たりにしている。

(『「コーダ」のぼくがみる世界』より)

 そして、この書籍が貴重なのは、「善意による偏見」もきちんと指摘していることだと思う。

 この例とは逆に、善意による差別に苦しんだというコーダも存在する。彼らが日常的に浴びせられていたのは、「頑張っていて偉いね」「親を支えるなんて大変だね」という〝労い〟に包まれた偏見だ。
 繰り返すが、コーダにとって通訳は当たり前のことであり、幼少期は特にそれ自体を「偉いこと」「大変なこと」だとは思っていない」。ところが、周囲の大人たちによるコーダを労うつもりの言葉は、コーダのなかに疑問が生まれるきっかけを作ってしまうのだ。
 自分はそんなに頑張っているのだろうか。
 自分の置かれている環境は、大変なのだろうか。
 そのように芽吹いた疑問の種は、やがてコーダを苦しめることにもつながっていく。

(『「コーダ」のぼくがみる世界』より)

 「善意による偏見」は、他の場面では存在するのを知っていたはずなのに、「コーダ」の生活については、恥ずかしながらわかっていなかった。こうしたことは、知っておいた方がいい、というよりは、やはり知っておくべきことだと思う。

「コーダ」の気持ち

好きなのに嫌い、嫌いなのに好き
相反する感情で揺れ動くコーダたち 

(『「コーダ」のぼくがみる世界』より)

 おそらく、当事者や、その周囲の人たちの間では、親に対しての思いに関して、「常識」になっていることなのかもしれないが、やはり知らないことが多い。

 コーダ特有の気持ちとしては、「自分の耳も聞こえなければよかったのに」というものがある。

 それは、一瞬、戸惑うような思いでもあるのだけど、でも、筆者が丁寧に書いていることで、もちろん、全部がわかるわけはないとしても、少し理解に近づける感触があった。

 もしも、自分の耳が聴こえなければ、両親との会話で悩むこともなかったのでないだろうか。聴覚障害者である親と聴者であるコーダは、親子でありながら使用する言語が異なるという特殊な環境に置かれている。ゆえに、「ろう者になりたい」と願ったことのあるコーダも少なくない。 

(『「コーダ」のぼくがみる世界』より)

 子どもから大人になっていく過程で、活動範囲も広くなっていく時間の中で、両親の耳が聴こえないことで、身についていく習慣や感覚について、近年になり広まってきたヤングケアラーという言葉について、さらには、両親のことや、自身の出生時のことなどが描かれているのだけど、勝手な推測だが、中には書くことに対して勇気や覚悟が必要だったのでは、と思える記述もあった。

 結局、母と父は反対意見を押しのけて結婚し、一人息子を儲けた。それがぼくだ。
 ぼくの耳が聴こえる判明したとき、両親の周りにいる人たちはみな喜んだらしい。

「ふたりの障害が遺伝しなくて、本当によかった」

 なんて残酷な言葉なのだろう。耳が聴こえない両親は、まるで罪人かなにかのようではないか。でも、当時はそんな扱いがまかり通っていたのだ。自分の身内に対してでさえも。

(『「コーダ」のぼくがみる世界』より)

「手話歌」について、知らなかったこと

 両親とのコミュニケーションでは手話も用いられたようだ。ただ、祖母が手話を嫌っていたこともあり、筆者本人としては手話は苦手なままだったというが、それでも手話に対しての思いはある。

 ぼくにとって手話は、母語なのだと思う。(中略)ぼくの第一言語は日本語になる。けれど、「幼い頃、自然に触れていた言語」という意味合いでは、間違いなく手話が母語にあたるだろう。
 もちろん、「すべてのコーダにとって、手話は母語である」とは言い切れない。けれど、手話に親しみを抱くコーダは、決して少なくないと思う。 

 さらに、筆者は手話を、改めて学び直す中で、手話が言語であり、母語であると実感できるような出来事もあり、手話というものの持つ豊かさや、固有性や、複雑さのようなものが、読者にも伝わってくる場面もあるが、その一方で、同じ手話であっても、手話歌については、かなり見方が変わる指摘もある。

 手話歌について考えてみる。うたっている聴者たちは、歌詞のイメージに合わせて悲しそうに眉を下げたり、あるいは自らを魅力的に見せるために満面の笑みを浮かべていたりする。それ自体は否定することではない。歌手としては当然の態度だろう。
 しかしながら、手話という観点で見てみると、尽くズレていると言わざるを得ない。その眉の下げ方には意味があるのか。頬の膨らませ方と手の動きは合っているのか。残念ながら、手話歌をうたう人たちのなかに、そこまで意識している人は見受けられない。かろうじて手話単語を手で表現してはいるものの、CLや非手指標識のことは無視している。あるいは端から知識がないのだろう。     
 それははたして、手話と言えるのか。その表現がろう者に伝わるのか。

(『「コーダ」のぼくがみる世界』より)

 CLとは、日本語で類別詞と訳される。手話のCLは実に豊かな表現だという。

 ろう者たちが手話歌に反発するのは、ただ歌詞の意味がわからないという理由からばかりではない、と個人的には考えている。特にろう者が真剣に怒りを向ける先には、自分の手話歌がろう者には伝わらないと知ってか知らずか、自分をいい人に見せたいという偽善や、多くの人から注目されたいという承認欲求のために、手話歌をうたっているとしか思えない人たちがいた。つまり、手話を自分のために利用している聴者に対し、多くのろう者は怒りを表明しているのだ。 

 こうしたことについて、読者として、自分は全く無知だった。

 手話という言語はろう者にとって、いのちのようなもの。それを聴者がまるで玩具のように扱うのは決して許されることではない。
 大切なのは、ぼくらの隣に、手話を使って生きている人たちがいることをしっかり理解すること。そして、彼らの言語がどのように抑圧されてきたのか、彼らの権利とはなにかを想像することなのだ。

(『「コーダ」のぼくがみる世界』より)


 他にも、「ろう者が描かれるドラマ」についての思いも、自分の父親に関しての気持ちも、全部で200ページに満たない分量でありながら、そう思えないほど、情報も情緒も豊かな作品だと思いました。

 この紹介で少しでも興味を持ってもらえたら、ぜひ、手に取っていただきたい作品だと思います。


(こちらは↓、電子書籍版です)。



(他にも、いろいろな作品について、書いています↓。もし、よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。

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おちまこと
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