「すごく好きであること」の持つ力。
いわゆる「マニア」というのか、「〇〇オタク」といっていいのか、人によっては、そういう呼ばれ方を嫌がるのかもしれないが、何しろ、ある分野や存在に、「異常に詳しい」もしくは「とんでもなく情熱を注いでいる」人たちの姿は、なんとなく似ているような気がする。
とても確固として見えるのだ。
「マツコの知らない世界」に出演する人たち
そんなことを比較的強く感じるようになったのは、「マツコの知らない世界」に出てくる人たちが、自分の「推したい」ことを語るときは、とにかく自信満々で、話術という意味では、相当のプロフェッショナルであるマツコ・デラックスを相手にしても、口をはさませないような迫力さえ伝わってくるからだ。
そんなに毎週、熱心に見ている視聴者でないのだけど、それでも、見るたびに、ゲストとして出演している人たちの姿は、揺るぎないものに見える。
それは、時として魅力的に映ることもあるから、もしかしたら、若い頃に聞いた記憶がある「〇〇君が、自分の好きなことを熱心に話す姿が、素敵」みたいなことを、自分も、感じているのかもしれない、と思う。
話している内容よりも、「好きなこと」を語る熱のようなものが伝わってきているのだろうか。
自信の源
自分に自信がある、ということは、結構難しいと感じるのは、自分自身が、自己肯定感が、それほど高くないからだろうけど、でも、同じような人も、少なくないように思っている。
だから、「マツコの知らない世界」に出てくる人たちが、元々、自分自身への自信がある場合もあるのだろうけれど、登場してくる時に、最初から自信満々というよりは、自分が「推しているもの」について語り始めると、何かが降りてくるように自信に満ちあふれてくるような印象がある。
だから、自分への自信、というものとは、ちょっと違うのではないだろうか。(この辺りで、変だと思う方もいるかもしれませんが)。
あることに、もしくはある存在に対して、とても好きで、とんでもないレベルで情熱を注いでいるということは、その「推していること」に対している時には、エゴが少なくなっていて、その「推していること」へ、身も心も捧げているという状態に見える。
それは、その信じていることと一体化しているとも言えるのだから、それは、宗教における、とても熱心な信者の姿と、どこか通じているように思える。
だから、その姿に、とても確固としたもの(言葉を変えれば、強い自信)を感じるのかもしれない。
あくなき欲望
唐突だけど、ある時代、代表的な「コレクター」であり「目利き」である青山二郎という人がいた。
中学生の頃から焼き物・骨董品蒐集にも興味を持ち、昭和2年(1927)26歳の若さで実業家・横河民輔の蒐集した中国陶磁器2000点の図録作成を委託されるなど、その鑑識眼は天才的と評されました。
白州正子という、今でも熱心なファンの大勢いる人が、さらに師匠と呼ぶような人でもある。
青山の最大の魅力が、彼の骨董、とりわけ陶器に対する愛情が、言い換えるなら美に対するあくなき欲望が、彼の最大の魅力だったんじゃないかと考えている。
その人に対して、どんな能力があるかないか、というよりも、その「美に対するあくなき欲望」が魅力だということを、精神科医の斎藤環が述べているが、それは、その度合いの違いはあるとしても、どこか、「マニア」の在り方に似ているように思う。
揺るぎない姿
他の分野で、「揺るぎない姿」といえば、マニアとは違うのかもしれないが、たとえば競馬場などに通い詰めているような、それも長年、生活を破綻させてもギャンブルにつぎ込んできた人。もしくは、確実に体に悪いのだと思うけれど、とにかく酒を飲むのが好きで、毎日のように飲み続けている人。
そういう人が、特に家族の一員である場合には、とても迷惑をかけられているから、こういう言い方は不快に感じられるかもしれないけれど、どんなものに対しても、身を捧げるほどのことをしている姿は、ある地点を超えると、他では見られないような凄みというか、迷いのなさ、のようなものが現れて、それが、どこか人の目を引き付けるようなものがあるのではないか、と思うことがある。(社会的な良し悪しとは別になりますが)。
もちろん家庭を壊したり、場合によっては命を失うようなことがあるので、こんなことを言うのは不適切かもしれないが、そこに「あくなき欲望」がある場合は、やはり、他では見られにくい「力」を発しているような気もする。
「すごく好きであること」の持つ力
「好きなことを仕事にする」という言い方は、以前よりも強く主張されなくなったものの、ずっと根強くある感覚でもあり、私自身も、以前の方が、それを目指すべきではないか、と思い込んでいた。
だけど、実は「すごく好きなことがある」という事自体が、珍しいのではないか。好きなことがあったとしても、心身を捧げるように、そこに向かっていけるようなことは、実は思った以上に「レアケース」で、だから、そういう人たちが発する確固とした姿と、発する熱のようなものは、とても貴重に感じるのかもしれない。
そんな風に思うようになった。
そうであれば、自分が夢中になれることがあったら、それはそれだけで素晴らしいことだし、その一方で、それは、実は思った以上に少ないことだから、好きなことが見つからないことに対して、焦らなくてもいいし、無理をすることもないし、そこで劣等感や後ろめたさのようなものを持つ必要もないと思う。
そんなに高い熱量で、何かに好きになれること自体が珍しいから、それで、人の注目を集めると思った方が、いいのかもしれない。
何かに対して、とんでもない情熱を注げること。しかも、注ぎ続けること自体を可能にするのが、おそらくは、才能なのだと思う。
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