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「これから、より一層、気をつけて取り組みます」という言葉の無意味さを、ずっと感じていた。

 言わない方がいい言葉がある、と思ってきた。

「集中しろ」。

 すでに集中している人間には、その言葉は届かない上に、もしかしたら邪魔になることさえある。今、集中していない人間が「集中しよう」と思っても、それが現実になることは少ない。問題は、今、行っている行為そのものに没入することだから、そのためにどうすればいいのか。そんな具体的な方法を考える以外に「集中」するのは難しいと思っていた。

 ただ、年齢や立場が上の人間に、「集中しろ」という言葉をかけられたときに、そんなことを思っていても、言い返すのも難しく、「はい」などとあいまいに答えながら、その無意味さについて忘れないようにしよう、とは思っていた。その思考自体に、あまり意味もないのかもしれないけれど。

「これから、より一層、気をつけます」

 誰かが、何かを失敗したときに、時々聞いていたのは、この言葉だった。

「今後は、より一層、気をつけて取り組みます」。

 それは、何か失敗したとき、なぜか何人かで一斉に頭を下げて、この言葉が続くのだけど、このときに、ずっと違和感があった。

 それを言う意味があるのだろうか。テレビなどで、そんな場面を見ているときは、もしかしたら「世間」に許してもらうために、これ以上「炎上」しないためには意味があるのかもしれない。それに、その謝罪によって悔しさを覚えて、失敗を繰り返さないために何とかする、という意味もあるかもしれないとは思いつつも、その有効性をずっと疑っていた。

建設会社の謝罪

 何年か前、家のすぐそばにマンションが建った。大きいマンションが建って、少し建ってから、その隣にまた小さめのマンションが建つことになった。

 太陽の光が見られる時間が少なくなるし、土地を購入しさえすれば、前にあった建物よりも高い建物を建てられることに理不尽さは感じていたけれど、何をやっても建設されてしまうと諦めていた。

 だけど、ご近所の、自分よりもさらに歳上の方々に、「若いから」という理由で指名され、そのマンション建設反対の取りまとめ役をすることになった。それは、2年足らずの時間だったけれど、それまでに経験したことがない疲労感があった。

 その工事の途中で、敷地内を整備していた建設会社が、他の建物の設備を傷つけたことがあった。

 そのときに、いつもはテレビなどで見ている光景に近いものを見た。

 近所の町内会館の、それほど広くない会議室を借りて、話し合いを何度もしていたのだけど、そのときは、最初に、いつもは座っている7人くらいの建設会社側の男性が全員立ち上がり、その工事の小さいミスに対しての謝罪の後、この言葉を聞いた。

今後は、このようなミスがないよう、より一層、気をつけて取り組みたいと思っております」。

 あ、こういう時に、今も言うんだ、という感想と共に、その謝罪の時間が終わり、その男性たちが座り、こちらの話す側になってから、私は、これまでも思っていたことを伝えた。

「謝罪の言葉は、わかりました」

 それからが本題だった。

「ただ、より一層気をつけます、というような心構えの話を聞いても、わたしたちの不安は減りません。気をつけるのは当然かもしれませんが、それだけでミスを防げるとも思えません。今すぐは無理でも、今後、ミスをしないために、具体的に何かを変える、ということができないでしょうか。少なくとも、このように変化させる、という具体的な言葉や考えをお聞きしたいです」。

 だけど、その場でも、その後でも、建設会社側から、それほど具体的な言葉はなく、「とにかく気をつけます」ばかりが目立っていたと思う。

 そして、工事期間中、それから二度ほど、素人が考えても、不注意によるミスで、建設側が謝罪をすることになった。

 その度に、謝罪よりも、次にミスをしないための具体的な対策を考えて、教えてください、と言ってはいたが、それが完全に聞き入れられることはなかったと思う。

失敗学

 やる前から負けることを考えるな。

 確かに勝負事やスポーツでは、その戦いの直前には正しいことだとは思うものの、それが、あまりにも拡大解釈され過ぎてきたと思う。

 もちろん失敗をしないようにするのは当然だけど、それでも失敗はある。だから、そうしないために、その失敗の原因を考えて、対策をする。もしくは、うまくいかない場合の、次の策を考える。

 そんな当然のことに対して、「やる前から負けることを考えるのか」といったことを言われたような気もするから、うまくいかない場合の次のプランを考える、といったことが、きちんと語られるようになってきたのは、最近かもしれない。

 だけど、その工事現場でのミスが三度も続いたのは、すでに「失敗学」が語られるようになった後だったのに、そういった考えを、知らないだけだったのだろうか。もしくは、知っていたとしても、失敗したら、とにかく気をつける、という有効かどうか分からない「対処法」を選択する方が楽だったのだろうか。

 さらには、失敗したら、また謝ればいい、と(現場でなく、もっと「偉い」会社の人は)思っていたのかもしれないが、それでも、謝る方だって、ストレスがかかっていたはずだった。

 今も、「失敗学」のような成果を使えばいいのに、とは思っている。

「人は必ず間違える」を前提とした社会

 著者は、認知科学者でもあり、アップルの副社長だったこともある人だが、この著作で、失敗について、こんな記述がある。

何かがうまくいかないときは人に過失がある、という考えが深く社会の中で定着している。それが周囲や自分自身を責める理由である。

 しかし私の経験では、たいていのヒューマンエラーはデザインが悪い結果として起こるのであり、システムエラーと呼ぶべきなのである。人は絶えず誤る。それは我々の自然で本質的な部分である。システムのデザインは、この点を考慮すべきなのだ。人に責任をかぶせるのは問題を片づけるのに便利な方法ではあるが、いったいなぜ、一人の人の一つの行為が不幸を引き起こすようなシステムがデザインされたのだろうか。さらに悪いことに、根本を解決せずに人を非難しても問題は解決しない。同じエラーが他の誰かによって繰り返されるのである。 

 本当にそうだと思ったし、こうした権威がある人が言ってくれて、これが常識になればいいのに、と願うような気持ちにもなる。自分の卑近な例に引きつけすぎるのは不遜かもしれないけれど、近所の工事現場の失敗も、作業工程をデザインし直して、ミスを減らす、ということをして欲しかったのだった。

我々はエラーを受け入れ、またその原因を理解し、それらが再び起こらないようにすることでそれに対処しなければならない。罰したり叱責したりするのではなく、支援することが必要なのである。 


「より一層気をつけて取り組みます」。

 そんな謝罪だけを繰り返す組織が少しずつ減って、失敗があったときは、その原因を客観的に発見し、人を責めるのではなく、作業工程や組織のあり方も含めた「デザイン」を見直すことを繰り返す組織が増えていき、そちらが「常識」となっていく。

 そんな社会になったら、今よりは生きやすそうだと、やっぱり思う。




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おちまこと
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