「自分は頭が悪いので」と開き直ることは、無責任なのかもしれない。
本当に、自分のことを、根本から「バカ」だとは、なかなか思えない。
多少のうぬぼれのようなものがないと、自分を否定し尽くしてしまったら、生きてはいけないとも思う。
幼い頃の評価
それでも、幼い頃に、知能テストや、学力テストを通して、数字として、“あなたの能力は低い”といったことを、あからさまでなくても伝えられ続けた記憶があると、その後、色々なことを学び、それなりに能力が上がって、なんとなく少しは頭が良くなった気がしても、幼少の頃の否定的な見られ方は、ずっと残っている気がする。
だから、どれだけ学んだとしても、それはメッキみたいなもので、生まれつき頭がいい人間には敵わないし、同時に、困難な問題などに遭遇し、いろいろと試みても解決のメドさえ立たず、なんだか暗いところにいるような気がしたりするときは、「もっと頭がいい人間がやるべきではないか」と微妙な怒りのようなものを感じることもある。
それは、なんだか分からない自分の勝手な気持ちなのかもしれないが、そんなときは「自分は頭が悪いから」と、いろいろなことをやめたいような感覚になることもある。
バカであることへの怒り
たぶん、普通に頭がいい人間は、自分を頭がいいとあまり思わないのかもしれない。それは、本人にとっては自然なことだろうし、それに、本当に頭がよかったら、取り組むべき課題は難しく、その上、自分の能力ではなく、その課題の方に注意がいくことが多いから、頭の良し悪しへの関心が、そもそも低いと思う。
でも、時々、自分だって、別にそういうレベルで「頭がいい」わけでもないし、元々は「頭が悪い」のに、他人の言動に対して、「どうしてそんなにバカなんだ」と怒りと共に思うこともある。
それは、余計なお世話だったり、自分のことを棚に上げている、傲慢な思考であることも前提とした上で、それでも、その怒りについて、少し考えてみる。
集団としての愚かさ
何かの課題に取り組んでいる集団が、権力的にも、資金的にも、恵まれているにも関わらず、信じられないくらいの迷走をすることがある。
それは、最近でいえば、オリンピック・パラリンピックの運営に関することは、これから先でも、信じられないような「愚かな行為」は「発見」されそうだし、それは、「頭が悪い」と思えるようなことかもしれない。
人間が、「組織」として「集団」になると見られるようなことで、それは、歴史的に「反省」してこなかった日本という国の問題だけでなく、もしかしたら、人類共通の課題かもしれない。
それに関しては、なんとかしたいという気持ちや、怒りが起こったとしても、それをきちんと考えたりする能力も知識も教養もまだない。(ずっと無理かもしれない)。
それは、例えば、こんな思考↓と関係しているのだろうとは思う。
「頭が悪いままでいる」ことへの怒りの理由
そんな集団や群衆などが「愚かな方向」へ走ってしまうことに関しては、今の自分には荷が重すぎて、何かを指摘したり分析したり、考えたりは無理としても、でも、例えば、そうした現象に対して「どうして頭が悪いのだろう」といった怒りが、自分のことを棚に上げて、どうして生じるのだろうか。
それは、元々の能力に対して、というよりは、「頭が悪いままであること」に開き直り、そこに居続けることに対して、いらだっているのだと思う。
そして、すぐに思いつくのは、他人に対しての、どんな怒りにも、共通するのかもしれないが、それは、そういう自分になりたくない、といった気持ちが反映している可能性がある。
「大人であること」との関連
以前、「大人であること」に関して、「まだ大人でないので」という「謙虚」なつもりでの言葉が、実は無責任なのではないか、と考えたことがあった。
もちろん、努力できること自体、それは恵まれた環境だったりするのだろうけど、そして、自分以外の誰かが、どんな状況にいるのか分からないのだから、「頭が悪いままでいる」というような勝手な怒りも、場合によっては不適切かもしれない。
それでも、「社会に対して、何かをできるはずの力がある場所」にいる人が、「少しでも頭を良くするように努力することを、しない」。それに対して、個人的には怒ってしまうことがある。
それは、「何かができるような力がある場所」ほど、外側からは分からない、様々なしがらみがあるから「頭が悪いままで、あり続ける」方が、いろいろな意味で、自分を守ることになる、という事情があるだけかもしれない。
それが現実なのだろう。
でも、それで、いいのだろうか。
「頭が悪いままでいい」という無責任
そんなことを思うと、その「頭が悪いままでいること」を選んでしまっている人に対して、怒る資格がある人間でありたいと思うのならば、少なくとも、自分自身が「頭が悪いままでいること」を選ばないようにするしかない。
そうしたことを考えていくと、生活の中で、仕事の現場で、「私は頭が悪いので」と、荷物を背負わないように、もしくは無理をしないように、場合によっては謙虚にさえ見せるために、振る舞うこと自体が、やっぱり無責任なのではないか、と思えてくる。
元々の能力がどうあれ、「ほんの少しでも、今よりも頭が良くなるような努力や工夫」ができる環境にいるのであれば、それをしないで、「頭が悪いので」と現状維持に加担するのは、やっぱり無責任な気がする。
大げさな言い方をすれば、そうしたことを繰り返す中で、知らないうちに魂が腐ってしまって、そして、そうなった時には、自分でわからないので、ある種のゾンビとして、残りの人生を生きることになるかもしれない。
それは嫌だし、怖い。
話は、なんだか分からない広がりになってしまったけれど、他人が「そこから向上することが可能な場所にいるにも関わらず、頭が悪いままで平気でいる」姿に、もし、勝手だけど、怒りを覚えることがあったら、少なくとも自分自身が、ほんの少しでも、今よりも「頭が良くなる努力」をした方がいい、と自分に言い聞かせるように思う。
そんな小さい決意をしてみる。
結果として、「頭が悪いまま」かもしれないが、何もしないのは、やっぱり無責任だと思うので、しんどい部分もありますし、最近、なんだか無力感を覚えることも多かったのですが、そう考えると、何とか少しでも頑張ろうと思います。
個人的には、あーしんどいな、頭が悪いままでいいや、とすぐにサボりたがる、未来の自分に対しても、この文章を書いてきたのかもしれません。
(この雑誌↓は、「頭を少しでも良くするために」参考にもなるし、面白くもありました)。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。
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