読書感想 『百年と一日』 柴崎友香 「神様の覚書、天使のスケッチ」
「時間は存在しない」というような言葉を聞いたことがあって、確かに「時間」はないと思うことがある。「時間」だけを取り出すことが出来ないが、だけど、生きている「時間」というような言い方はしっくりとくるし、それ以外に表現が難しい。
「百年と一日」 柴崎友香
人間が生きていて、その間の「変化」そのものが、「時間」とイコールなのかもしれない、と思えるくらい、この小説の中では、10年や20年は、すぐに、流れる、というより、経っていく。
そして、長い「時間」も、あっさりと1行で、流れる。
三十年が経ち、パーカは、自分がパーカと呼ばれていたことを思い出すこともほとんどなかった。
ある意味では残酷なくらいくらい、あっという間なのだけど、その感じがリアルに思えるのは、自分が年をとったせいかもしれない。そして、本当の「人生」でも、その時間の経ち方は、この小説と同じように、あっさりと過ぎるのも事実だと、どこかで感じているから、微妙な恐さがあるのかもしれない。
そして、短編が続いていく。その短編の中に、ほとんど無造作に思えるほど、また短いシリーズもの…〈娘の話 1〉、〈ファミリーツリー 1〉などがある。(文中の全ての数字は漢数字のようだけど、ここだけ、通常の数字表記になっている。どうしてだろう)
その描き方は、ある意味、自由だったり、話も、あちこちに飛ぶといえば、飛ぶ。登場人物にも名前があったり、なかったり、ニックネームや、「姉」や「妹」だけの表記だったりと、一見、無造作そうにも思えるのだけど(この筆者が無造作をするわけはないと感じながら)、それが気にならないのは、これは、「世界のぜんぶ」を書こうとしているせいかもしれない、と思った。
そして、通常は、あまり注目されないような、生きている時間の断片が書かれていて、それが、小さなものも含めて、33編の話がある。それぞれの小説は、この筆者であれば、全部を長編にできるような場面の連なりにも思えるが、京都の三十三間堂で、たくさんの仏像が並んでいる中に自分と似たような仏が見つかるのと一緒で、この33編の中に、自分の人生と似た「時間」が見つかるかもしれない、とも思った。
そして、それぞれの場面を描く感じは、それこそ書くよりも描くという表現が似合うのだけど、どの場面でも、その登場人物や対象物への距離感が独特に思える。優れたサッカープレーヤーのMFが持っているといわれる、ピッチにいながら、俯瞰する視点が持てるのと同様に、筆者に備わった「世界」への不思議な距離感の視点を、意識させられる「時間」も続いているように感じた。
それが、この小説の読み心地に、大きく関わってくるようだった。
独特の距離感
バカみたいな表現だけど、すごいと思った小説家が、この人はすごいと評していたのが柴崎友香で、それから何冊か読んだ。自分が、その小説にとって、ふさわしい読者かどうかの自信はないが、読むたびに、おおげさにいえば、違う「世界」を見せてくれる凄さを感じたのだけど、その「世界」に入り込む、というのとは、少し違って、その独特の距離感をキープする微妙なクールさがあって、それも、他の小説家には感じにくい読み心地を生んでいるのかもしれない、と思うようになった。
実際に見たからといって、何かが分かるとは限らないけれど、一度は本人の姿が見たいと思い、イベントに出かけた。そういう行為は、どこか不純だったりするのかも、と思いながらも、少し気持ちは上ずっていたと思う。
こんなことは、いろいろな人が書いたり、話したりしていることだと思うのだけど、本当に質の違う凄さを持っているような、どうしてこんなことを書けるのだろう、と思えるような小説家は、何かの新人賞で華々しくデビューするというよりは、気がついたら、小説家になっている。そのキャリアの中で、長く実力を発揮し続けて、何かの賞を受賞する時は、その小説家の受賞によって、その賞の価値が上がるような印象さえ持たらしてくれる。
かなり偏見もあるとは思うのだけど、そして、全部の小説をくまなく読んでいるような熱心なファンでもないので、後ろめたさもあるが、私にとっては、柴崎友香は、そういう小説家だった。
そして、そのイベントに、あらわれた姿を見て、柴崎友香は、ニュートラルな存在だと思えた。それでも、微妙な威厳や、年齢が分かりにくい気配とか、異質感はあちこちから漂っていて、そして、話を始めると、また気配が変って、話題が変ると、また違った空気感をまとう。しかも、話し方に迷いがなかった。ちょうど、人類という存在の真ん中にいて、世界全体を、ずっと見ているような感じがした。
トークも興味深かった。質問も出ていた。
特に若い時は、自己顕示欲も強い頃だから、登場人物に自分の思いを仮託したり、そうでなくても、登場人物と作者が同一化するような「熱さ」があっても当然なのに、柴崎友香の作品には、初期の頃からそういう感じが少なく、私にとっては、「多視点」よりも、それが不思議だったから、そのことも質問したかったけど、いろいろなことに負けて、質問しそこなった。
本を購入し、サインをもらう時に、緊張しつつ、なるべく時間をかけずに質問することにした。
いつも、作者と作品の登場人物との距離感があるように、冷静だと思ったのですが、最初から、あんな風だったのですか。
「そうですね。そんな感じですね」。
書いている時の距離感は、どんな感じですか?
「同じ居酒屋にいたとして、同じテーブルではないですね。少し遠くから見てる、っていう感じですね」。
自分にとっては整理されていない気持ちだけど、やっぱり、すごいと思った。
神様の覚書、天使のスケッチ
『百年と一日』は、誰が見て、誰が書いているのだろうと考えると、最初は、「神様のスケッチ」なのかとも思ったが、どの短編の冒頭にも「あらすじ」のような文章がある。
とても、ざっくりとした短い文章。
これは何だろうと思える。そして内容に間違いはないのだけど、小説を読むと、受ける印象は変わってくる。「あらすじ」は遠いところから、小説は、かなり近い場所で書かれているように思える。
個人的な印象に過ぎないが、そうなると、冒頭の「あらすじ」が「神様の覚書」ではないか、と思えた。あまりにも膨大な人間のできごとがあって、そんなに全部は覚えてないけど、でも、こんな感じ、とメモ書きのようには、残している。
それを、「天使」のような、もっと人間への距離が近く、好奇心がありそうな存在によって描かれているのが、この小説で、だから「天使のスケッチ」ではないか、と思えた。人間の様子が「天使」の距離感で、冷静に、でも、その感情もこみで描かれているから、全体としては、滅びる時に見るような「人類の走馬灯」といっていいものになっているかもしれない。
かなり大げさなのかもしれないけれど、読み終わった時の印象は、私にとっては、そういうものだった。
そして、実利的な読み方は、邪道だとも思うが、今の、コロナ禍のような「得体のしれない混乱」の中に、ずっとい続けることによって生じている不安は、こうした「人類の走馬灯」とも思えるような、「世界」と一定の距離を持った小説を読んで、その距離感の中に身を置くことで、今のコロナ禍の混乱への見方は、少なくとも、少し変わる可能性があると思った。
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