読書感想 『じゃむパンの日』 赤染晶子 「純エッセイの力」
いつも、同じような言葉を繰り返すのは、いつまで経っても自分が無知のせいなので、恥ずかしいのだけど、やはり、今回も知らない作家の作品だった。ただ、どこかで熱のある推薦のような言葉で紹介されていて、興味を持てた。
これも、いつも同じようで申し訳ないのだけど、収入が少ないままなので、図書館で借りようと思ったら、予約がかなり入っていて、手元に来るまで3ヶ月かかって、さらに、次の予約も入っていた。
それだけ、多くの人の注目を集めているのを改めて知ったのだけど、2010年に芥川賞受賞を受賞しているということを、申し訳ないのだけど、本当に不思議なくらい記憶になかった。
そして、そのエッセーは、独特の感触だった。
『じゃむパンの日』 赤染晶子
このキャリアの中で、2006年から2012年までの作品が、この書籍の中に収められている。交換日記も含めて、56本。202ページで56本だから、一本あたり、4ページ足らず。
それは、1950年代のポップスみたいだった。長くても2分くらいの曲が多かった時代。それだけの時間でも、決して短すぎる感じはしないし、聞いている時は、その世界に居させてくれてくれるように、赤染のエッセーも、その場所に連れていってくれる感じがした。
例えば、「昭和のニート」。
そして、そのエッセーの中で、鶴吉さんがニートになった理由などを考えたり、推測したり、探ったりするように近づきすぎるわけでもなく、さらには、見下ろすような距離の遠さから観察するのでもなく、とても絶妙な位置から描き切っているような感じになるが、そのことに読んでいる途中には気がつかずに、ただ、心地よく読む進むことができる。
たとえば、「蝦夷梅雨」。
エッセーの距離感
とても個人的な、もしかしたら偏見も混じっている見方なのだけど、技巧的な小説家が、エッセーを書くときに、その技巧をあまり出さずに、素に近い表現をしようとして、だけど、そのさらけ出し方の具合いがつかめていないせいか、その作家のファン以外の人間には、ちょっと読むのは厳しい場合もあるように思っている。
それは、もしかしたら、漫才をする時は、すごく面白いのに、フリートークは急に別人のように見えてしまうような芸人と似ているのかもしれない。
だから、まだ、この赤染の小説を読んでいないので、そんなことを考えること自体が失礼なのだけど、このエッセーは小説家の技巧で書かれている上に、自分を出しすぎるわけでもなく、自分を守りすぎているのでもなく、絶妙な距離感で書かれていて、押し付けがましさもないから、穏やかな温かさのようなものまである。
だから、今、改めて注目を集めているのではないかと感じたが、この距離感で書かれたエッセーは、自分にとっては、あまり経験がなかったから、独特で、不思議に感じたのだと思う。
それでも、個人的には(そんな言い方をするのは、偉そうで申し訳ないのだけど)、素直に、とても面白いと思えたエッセーもあった。
ここからの展開も含めて、絶妙だった。
書き手の位置
書いてあることそのものを楽しめるように、重すぎず、軽すぎず、細心の注意を払って、書き手のことも出しすぎないように、どのエッセーもつづられている。
ただ、その中で、小児病棟のことについて書かれた何編かのエッセーだけは、これが書き手自身の経験なのか、家族のことなのか、それとも仕事などでの見聞なのか、さらには、伝聞なのか。
その書き手の位置を、おそらくは意図的に明確にしないまま書かれているように思えた。だから、他のエッセーと比べると、距離感が近づきすぎるようなリアリティもあり、その微妙な混乱も含めて、作家の狙いなのかもしれないと、読んだあとだと考えてしまう。
例えば、『病院の小さな秋』
そして、自らが暮らしていた京都の街についても、また、おそらくは、これまでの生活が大きく変わったかもしれない芥川賞受賞に関しても、そのエッセーの中での触れ方は、いずれも控え目で、書き手自身が自信ありげに立って、その場所や経験をガイドする、というような位置にいない。
こうした想像をすること自体が失礼だとは思うのだけど、前に出過ぎない姿勢のために、世の中に、それほど広く知られることがなかったのかもしれない。
芥川賞受賞は、とても注目を浴びる機会であっても、それが商業的に成功することと、もちろんイコールではないのは「常識」でもあるだろうし、毎年、上半期と下半期で、芥川賞作家は次々と誕生していくのだから、そのタイミングによって、実力や作品の質とは関係なく、知名度が上がらないこともあるのは、他の分野と同じなのだと思った。(自分が知らなかったことは棚に上げているので、なんだか申し訳ないのですが)。
初のエッセー集
それでも、2010年に芥川賞を受賞し、2017年に若くして亡くなってしまった作家の、それも初エッセー集が、2022年に出版されるのは、やっぱり不思議だった。
小説の世界でも、再評価、ということはあると聞いたことはあるけれど、それは、もっと長い年月の後だったりもしそうだから、こうして10年単位での再評価を可能にしたのが、一人の編集者の情熱と力だと、初めて知った。
という事実を含めて、まるで、『じゃむパンの日』の中の一編のエッセーのような出来事だと感じるし、このエッセー集を読むまで、赤染晶子という作家を知らなかった失礼な人間が言う資格はないとは思うのだけど、それでも、こうした経過は、この厳しいことばかりが続いている世の中で、明らかに希望といっていい出来事だと思う。
対象との心理的な距離感、出来事の希少さ、書き手の思い入れ、読んだ後の覚醒の程度。何より、そのことを描くときの技術の高さも含めて、こうした完成度の高い作品を、アルコールなどを出さない喫茶店が「純喫茶」と名付けられたように、読み手を酔わせすぎないという意味でも、「純エッセー」と呼ばれるようになるのかもしれない。
本のサイズは、通常の単行本より、一回り小さく、新書版よりは、少し横長、という手に取りやすいになっていることにも、出版した側の思いがこもっているように感じた。
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