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読書感想  『ヘルシンキ 生活の練習』  「フェアで正確な視点」

 北欧の語られ方に、個人的には違和感があった。

 自分が介護生活にはいり、仕事も辞めざるを得なくなって、介護に専念するようになってから、自分でも調子がいいとは思うのだけど、急に介護に関する本なども読むようになった。

 介護の体験談。介護の社会的な意味。各国の介護事情。

 その中で、北欧の介護制度に関しては、自分が読んだ狭い範囲に限ってなのかもしれないが、専門家が北欧を訪問し、そのシステムの素晴らしさに感嘆する、賛美する。そんな内容が多いように感じ、そこに違和感がずっとあった。

 その当時、私はただ介護をする中年の男性で、本当になんでもない存在だったのだけど、いくら北欧の各国の現在の介護の制度が素晴らしいとしても、最初からそうであるはずもないのだから、そこに至るまでの過程を知りたかった。

 その一方で、寝たきりはいない理由について、ひそやかに、実は高齢者にとって厳しい面もある、といった描写がされることもあった。それも、そのやり方を選択するまでに、さまざまな試行錯誤があったに違いないから、その部分こそ理解したいと思っていた。

 自分の介護が終わった後も、テレビなどでヒュッゲといった言葉が、どこかオシャレな気配とともに語られたりすることを見るようになったが、それ以上、北欧の社会構造について、何かが伝えられないのではないか、と思うようになった。

 自分が実際に現地に行かないとわからないのではないか。もし、訪問したとしても、自分の視点では、実は何も見えないのではないか。

 そんなことを考え、そうした思いがあったことも忘れた頃、この本の存在を知った。

 読む前は、その場所で生活をしている人が、どこか特権的に語るというパターンかもしれないと、ちょっと身構える気持ちもあったが、読み始めると、どうやらこれまでとは違う作品ではないか、と思えてきた。


『ヘルシンキ 生活の練習』  朴沙羅

 著者は、社会学の研究者。それも、専門が移民研究であるのだし、さらには、ヘルシンキ大学の講師として、フィンランドで生活を始め、しかも長く住む予定のようだから、それだけで視察の視点とは違っていて当然だと思うし、専門家としての観察力もあるはずだ。

 それに加えて、著者特有の環境と思考もあるようだった。

 できればよその国で働きたいというのは、中学生くらいの頃から、かれこれ二〇年来の計画だったからだ。
 私は日本で生まれて、日本国籍をもつ在日コリアンだ。父が韓国人、母が日本人なので、「ハーフ在日」と言うのが正確なのかもしれない。ときどき、初対面なのにいきなり国籍やアンデンティティに関する立ち入った問題について質問してくる人がいる。そういうことを質問していいと感じられるのは羨ましい。
 名前が韓国風(いわゆる民族名というやつ)なので、日本で日常的に暮らしていて、法律が関与しないかぎり、私は日本人とは扱われない。日本人として扱われていれば、私は私をごく当たり前に日本人だと思ったかもしれない。もちろん「なんで日本人にならないの?」とか「もう日本人と同じだよね!」とか言われるときとは違う意味で----そういう言い方は、相手が「日本人ではない」ことを前提にしている。

(『ヘルシンキ 生活の練習』より)

 著者は1984年生まれ。著者よりも前の時代に日本で生まれ、当たり前のように日本で育ってきて、何も考えていなかったような人間が、他人事のように語るのは不遜だとしても、20世紀の末でも、こうした環境は変わらないことを知らされる。

 自分の何が悪いのか、自分が何者なのかを悩みすぎて、面倒くさくなった頃に小学校時代が終わった。 

 著者は中学に進学し、そこで英語を母国語として教える教師は、こちらが何人なのか、といったことは気にしていないことに、気づく。

 そこで、私は俄然、「外国」に住もうと思った。日本でも韓国でもない国に住みたい。正直、「極東からきた猿の一味」くらいに思われてもかまわない。歴史も現状も何も踏まえず、日本人から「朝鮮人は朝鮮へ帰れ」と言われるのに比べたら、地球の反対側で「イエローモンキーはファーイーストでバナナでも食ってろ」と言われるほうがましだ------といったところで、心優しい日本人の友人の多くには、伝わりすらしないのだから。

(『ヘルシンキ 生活の練習』より)

 そして、約20年が経って、本当にフィンランドのヘルシンキで、大学の講師としての職を得て、生活が始まることになった。

 しかも2020年の1月からだから、新型コロナウイルスが世界を覆う頃だった。未就学児の2人の子ども---ユキとクマと一緒だった。

ヘルシンキの保育園

 ヘルシンキに着いて住み始めてから、当然ながら、いろいろとあったものの、子どもたちは、なんとか保育園に通えることになる。

 担任のマリア先生から、就学前教育の目的と大事にしていることについて説明があった。

 その中の一つに、こうした項目があった、という。

 基本的に今は、あらゆるスキルを練習している時期。できないことがあっても、喧嘩しても、意地悪なことを言ったとしても、それは「悪いこと」ではなく「いま練習中のこと」。できればご家庭でもそのようにお伝えください。 

(『ヘルシンキ 生活の練習』より)

 このスキル、という捉え方は、どうやら保育園での教育の核心のようだったし、何にフォーカスするかも、大事な視点のようだった。例えば、保育園での「友達作りに対して、どのような工夫を?」という質問に、マリア先生は、こう答えた。

 子どもたちの様子を見て、一人ぼっちになっている子がいたら「何をして遊びたい?」と声をかける、友だちを作ることにフォーカスするというより、一緒に遊ぶ時間を増やしていくことにフォーカスする。大人は持続的な人間関係を見てしまいがちだが、子どもにとっては遊んでいるその瞬間のほうが重要な場合が多い。

 教員たちは、今、子どもたちがあらゆるスキルを学んでいる最中だと考えている。だから、今の教員の仕事は「この人が悪い」「ここが悪い」とジャッジすることではない。「このスキルを学んでいる最中だね」とお互いに確認するのを手伝うことだ。

(『ヘルシンキ 生活の練習』より)

 ただ、人の感情もスキルとして扱うことに、著書も最初は少し戸惑う。
「我慢強い」「思いやりがある」「好奇心が強い」「協調性がある」も、全てスキルとして扱われている。

「これどれもスキルですか?人格とか才能とかじゃないんですか?」と思いつつ、「美を鑑賞する」と「チームワーク」はまだ難しいんじゃないですかねー、とカードを指した。
 アンナは「あら!そうですか。私はクマが落ち葉の音を楽しみ、葉っぱを太陽に透かせて眺めているのを見たことがあります。彼はおそらく、美を鑑賞するスキルを練習していますよ」と訂正された。そうだったのか。
 それから私が、「このスキル、私も練習できてないことが多いんですけど」と言ったら「これらのスキルはすべて、一歳から死ぬまで練習できることですよ」と指摘された。

(『ヘルシンキ 生活の練習』より)

 子どもたちが保育園に通う中で、保護者として、その教育方針にダイレクトに接することになるから、ただの視察とは違って、当然ながら、理解は深くなるはずだ。

 私は、思いやりや根気や好奇心や感受性といったものは、性格や性質だと思ってきた。けれどもそれらは、どうも子どもたちの通う保育園では、練習するべき、あるいは練習することが可能な技術だと考えられている。

 これから練習の必要なスキルがあれば、それらが話題になるだけだ。それも、「できていない」「能力がない」「才能がない」と評価されるのではないし、目標達成に向けて努力しているか否かすら、おそらく問題人されていない。もっとあっさりと「ここはもうちょっと練習しましょう」と言われるだろう。
「感受性が豊かだ」「好奇心が強い」「共感力がある」「根気が続く」といった、通常なら性格や才能などと結びつけられてしまいそうな事柄が「スキル」と呼ばれている理由は、このあたりにありそうだ。私は根気がないのを子供の頃から気にしている。これが私の性格でないのなら、「根気がない」という「性質」は、単に「何かを続けるスキルに欠けている」ということになる。そして、そのスキルを身につける必要があると感じるなら、練習する機会を増やせばいいということになる。
 なんと盛り上がりに欠ける話だろう。でも「あなたはすごい」だの「お前はダメだ」だの評価されるより、淡々と「これを練習しましょう(したければ)」と言われるほうが、気が楽ではないだろうか。 

(『ヘルシンキ 生活の練習』より)

 それからも、保育園の生活の中で、当然ながら、子どもにもさまざまなトラブルや、困ったことが起こる。そのたびに、著者は保育園の先生に相談し、その対応に驚かされることになる。

 今までのところ、ヘルシンキで子どもたちや私が体験した、保育園や子育て支援関係で得たエピソードやアドバイスに共通点があるとすれば、「問題/技術に焦点を当てる」のような気がしてきた。先生方が子どもを褒めたり叱ったりするとき、それはその子の人格を褒めたり貶したりしているわけではなく、その場の状況や問題に焦点を当ててそこを褒めたり変えようとしたりしている。 

(『ヘルシンキ 生活の練習』より)

 1年が経つころ、著者は、こうしたことを思うようになっていた。

 フィンランド(に限らず、北欧)は理想郷のように描かれるときがある。かと思うと、そんなことはないのだ、これがフィンランド(と北欧)の真実だ、と悪い情報を流す言説を見ることもある。
 でもたぶん、それはどちらも正確ではない。フィンランドは理想郷でもないし、とんでもなくひどいところでもない。単に違うだけだ。その違いに驚くたびに、私は、自分たちが抱いている思い込みに気がつく。それに気がつくのが、今のところは楽しい。

(『ヘルシンキ 生活の練習』より)

子育て支援

 それでも、著者にも、眠れないときがあった。そこでヘルシンキにある外国人家族向けの電話相談所に電話をする。そこでは話を聞いてくれた上で、いくつかのアドバイスをされる。そのうちの一つが、何かのソサエティに入りましょう、というものだった。

 「ソサエティに入りましょう」というアドバイスは、「ママ友を作りましょう」というアドバイスと少し違う。ママ友を作りましょう、という提案だと、実際に友達を作るのは自己責任のような気がする。でも、「ソサエティに入りましょう」という提案は、私とその「ママ友」なる人との一対一の関係を想定していない。私の都合によって入るのも出るのも自由な緩い団体が複数あり、個々人は行きたいときにそこに行くだけだ。

 そして、相談所の相談員は、電話の最後にこうした言葉を伝える。

 「平日八時〜十六時の間に、怒りが止まらないとか精神的にしんどいと感じたら、この電話にかけてください。私が出ます。土日だったらここに電話してください」と番号を教えてくれた。  

 その後、訪問の相談も著者は利用した。

 とにかく自分が、子どもに対して、怒り過ぎてしまう。どうしたらいいのか?といった悩みに対して、相談員は、こうした言葉を伝える。

 まず言われたのは、「母親は人間でいられるし、人間であるべきです。

 怒るのはOK。むしろ怒り方によって子供への教育につながる。なぜなら、怒りや悲しみを表現することによって、子どもに「あなたがこういうことをしたり言ったりしたら、相手は怒ったり悲しんだりする」と教えることになるから。

 そもそも怒ること自体に問題はない。何かと腹が立つのはおかしいことではない。怒り自体には破壊的な要素はない。それが虐待的な言葉や行動に結びつかなければいい。感情それ自体はいい悪いもない。ただ、あるのだから、と。

(『ヘルシンキ 生活の練習』より)

 こうした対応にかんしては、やっぱりすごいと思ってしまい、そして、一緒に論じてはいけないのだろうけれど、「オープンダイヤローグ」が生まれた国だという納得感も感じた。

フェアで正確な視点

 他の人間では想像しにくい、著書の経験や能力や調査や思考の密度と成果によって、フェアで正確な視点が可能になり、だから、フィンランドだけではなく、当然ながら、日本のこともより鮮明に見えているように思う。

 二〇二〇年の春に、日本で新型コロナウイルス感染による死者が少なかったのは、医療の現場や介護の現場において、そして飲食店や旅行業界や教育・保育の現場や個々の家庭で、懸命な努力がなされていたからに違いない。
 けれども、人口あたりの死者の数の違いは、当時の政権の無為無策にもかかわらず、現場の人々の努力だけでもたらされたのだろうか。もしそうだとするなら、そんなにも努力する素晴らしい人々が、そんなにも無為無策の政権を生み出し支持し続けていることになるのだろうか。
 私たちが苦しい理由は、私たちが思っていることと、違うところに起因しているのではないか。
 この疑問が、二〇二〇年の三月から、私の頭を離れない。

(『ヘルシンキ 生活の練習』より)

 こうした思考の持続によって、著者の社会への解像度はより高まっていくのだろうと思わせる。

 私たちが苦しい理由は、私たちが思っていることと、違うところに起因しているのではないか。二〇二〇年の三月から、私はぼんやりとそう感じている。
 そもそも、日本に住んでいる人にとって、フィンランドに住んでいる人たちの幸福度が高いかどうかなんて、そんなに重要なことだろうか。そうではなく、本当に言いたいことは、「私たちは不幸だ」ということのほうではないだろうか。それ、フィンランドに興味ないんじゃありませんか。
 フィンランドは、いやフィンランドだけでなく世界のどの国のどの場所も、残念ながら、日本の不幸を語るときの枕詞ではない。 

 日本にいて不幸だと感じるのなら、その不幸は日本に属する私たち自身で解決しなければならない。フィンランドの幸福度に寄与する法制度は、仕組みも歴史も理念も、日本とあまりにも違うので、参考にできることはほとんどないだろう。日本に住んでいて自分たちを不幸だと感じるとき、フィンランドがその不幸さを語るときの比較対象として持ち出されるのであれば、検討すべきはフィンランドの幸福度(だけ)ではなく、日本にいることが不幸だと感じる比較の仕方だ。

(『ヘルシンキ 生活の練習』より)

 もちろんすぐに答えが出ることではないのだけど、とても大事な本質的な問いだと思う。

 社会問題の解決のためにできる範囲でみんなで力を合わせて組織を作って粘り強くがんばっていくのと同時に、なぜ自分たちはそこまで不幸だと思ってしまうのかということと、その不幸だと思ってしまう考え方やその表現の仕方の歴史的経緯も、検討したら面白いのではないだろうか。 

(『ヘルシンキ 生活の練習』より)

生活の練習」が必要なのは、どこか違う国に移ったときだけではないのかもしれない。


 この記事に引用したのは、著書の一部に過ぎません。

 フィンランドの歴史や、さらに現在の支援制度に関わることなども、まだたくさんの具体的なこととして書かれています。 

 この紹介した文章で、少しでも興味を持っていただいた方すべてに、おすすめできる作品だと思いました。


(こちらは↓文庫本です)。



(他にも、さまざまな作品について書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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