憲法と万葉集
日本国憲法前文を詩として読み、詩論を書く。
お題をもらって帰宅すると、さっそく本棚から探りだし、前文を読んでみた。
一読、こりゃアカンわ。こんな文章をネタに詩論を書くなんて無茶やで、と講座の講師平川氏を恨んだ。
美し過ぎる。前文の格調が、伝わってくる理想が、力強く、スケールもでかい。
最初にごめんなさいと謝っておいて、あえての表現を使うが、美人は三日で飽きるというではないか。飽きるどころか、近づくことも困難だ。
詩論という以上、至近距離に詰めなければならない。近くで眺め、分析し、批評せねばならない。それが出来ないのだ。せいぜい、完璧な理想、崇高な理念、人類の到達した最高の営為、などとほめそやすことしか出来ない。
なぜならば、日本語の文芸の歴史に、ほとんどこのような表現が、なかったからだ。
われらは、平和を維持し、
専制と隷従、圧迫と偏狭を
地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、
名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、
ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
(日本国憲法前文、部分抜粋)
詩として読めるように改行してみた。
オバマ元大統領の就任演説やバイデン就任時のアマンダ・ゴーマンの詩のようだ、と言われれば、まさにその通りで、翻訳調である。
それらは、ものごと、出来事を「AはBであるって断言しないと、詩にならない」(小田嶋隆)言語で書かれた叙事詩の伝統上にある。
原文は英語なのだから当然だが、日本語文芸の歴史に、このような表現が見つからないのは、それだけではないはずだ。
欧米の言語から日本語へ。
同じコースで、日本語文芸の世界に飛び込んできた、アメリカ出身の作家がいる。
小説『星条旗の聞こえない部屋』(1992年)で、野間文芸新人賞を受賞し、以降、数々の作品、受賞歴がある作家、リービ英雄だ。
日本語の作家に転じる前は、日本文学研究者として、万葉集の英訳で全米図書賞(1982年)を受賞している。
そのリービ英雄が絶賛する柿本人麻呂の長歌を、著書『英語で読む万葉集』から引用してみよう。飛鳥時代の7世紀後半、父天武天皇と共に壬申の乱を闘った、高市皇子への挽歌である。
高市皇子尊の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
……整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角(くだ)の音も 敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 指拳(ささげ)たる 旗の靡きは 冬ごもり 春去り来れば 野ごとに つきてある火の 風のむた 靡かふごとく 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒ぎ み雪降る 冬の林に つむじかも い巻き渡ると 思ふまで……
……軍の隊伍を整える鼓の音は、雷の音と聞こえるほど、吹き響かせている小角の音も、敵を目にした虎が吠えているのかと人々がおびえるほど、高く捧げた旗がなびくのは、冬が終わり春になると、あらゆる野につけられた野火が風とともになびくように、手に持つ弓の弭(はず)の騒がしい音は、雪の降る冬の林につむじ風が吹き巻いて渡ると思ふほど……
(柿本人麿 巻2・一九九)
リービ英雄によると、初期万葉に登場する人麻呂の長歌(挽歌)は、古代ギリシャのホメロスに匹敵する、英雄と戦争を歌った壮大な叙事詩なのだ。
日本語の文芸が、初めて書き言葉を獲得したその時(万葉集は、漢字の音を借用して用いられた文字、いわゆる「万葉仮名」で書かれている)、人麻呂のような、偉大な詩人が登場した。
人麻呂が活躍した7世紀後半から8世紀の初頭は、仏教を始めとする中国大陸からの様々な新しい思想、政治官僚制度などが入って来て定着していった時代だ。
人麻呂も、「大陸のことば・漢」を存分に学びながら、「島国のことば・和」を練り上げていった。
その成果としての長歌(叙事詩)と、さらなる発展として、「日本の抒情文学の誕生」を、人麻呂ひとりの文学的展開に、リービ英雄は見ようとする。
皇子皇女の死を悼むという儀礼のコンテキストにおいて、人麻呂は次つぎと最大級の「公」の挽歌を作り出した。
~中略~
しかし、最終的には、柿本人麻呂の文学の最高峰は、「公」の挽歌ではなく、かれ自身の妻の死を悼んだ「私」的な挽歌の方にある、という結論にいたった。
(リービ英雄『英語でよむ万葉集』)
そこでリービ英雄は、人麻呂の「抒情詩」を、彼の詩業の到達点として、読者に紹介して見せる。
柿本人麻呂の妻死して後に泣血哀働(きゅうけつあいどう)して作りし歌二首 より
……大島の 羽易(はがひ)の山に 汝が恋ふる 妹は座(いま)すと 人の云えば 岩根さくみて
なづみ来し 良けくもぞなき うつそみと 思ひし妹が 灰にて座せば
……大島の羽易の山にあなたの恋しい妻がいらっしゃると人が言うので、岩を踏み割り、苦労をしてここまで来たが、その甲斐はまったくなかった、この世の、生きている人だと思っ
た妻が、灰なのだから。
(柿本人麿、巻2・二一三)
リービ英雄は、万葉集を英訳しながら、英語(欧米語)、古代日本語、現代日本語と何度も往還することで、「日本の抒情文学の誕生」を発見する。
ここでそのスリリングな過程を謎解きする余裕はないが、「挽歌のクライマックスをもたらす。主語のない日本語だが、ここではまさに古代の(I)が現れている」と、言っているところが興味深い。
島国のことばは、「公」(We)より「私」(I)を、表現することに長けている。人麻呂自身が、大陸のことばと島国のことばと、何度も往還する中で、そのことを発見したのだ。
人麻呂の時代は、外敵、外圧によって「お国ぶり」が強く意識された時代でもあった。
滅亡する百済を支援した結果、唐と新羅の連合軍に白村江の戦いで大敗し、国内を二分する内乱、壬申の乱を迎える。防人を九州沿岸に配置したのは、唐が攻め入ってくるのではと恐れたからだ。
同時に、遣唐使や、半島、大陸からの移民がもたらす「漢」の思想、仏教、政治官僚制度、建築技術、美術、工芸、文字文化。どれをとってみても、島国の人々にとって圧倒的に優れており、存分に魅了され、同時に脅威でもあっただろう。
建築家の磯崎新は、伊勢神宮の中心にある神宮正殿を批評的に分析する文脈で、神宮創建当時の時代背景を、次のように書いている。
『古事記』が古代日本語の読み下し文として記述される。漢字仮名交り文と呼ばれる書記法が成立する。それが更には、返り点をつけて漢文を日本語に変換するシステムを生みだした。イセのもつ文化的な枠組みが『古事記』に類似しているとみれば、~中略~(神宮正殿は)7世紀末、あるいは8世紀前半にかけて、イセが始原としてとりだした独自の語りの要素だからである。おそらく、これらが渡来文化に対して、土着文化の特性を示していと、確実に認識されていただろう。それらを選択的に用いて、この正殿の基本型がデザインされた。ナショナリズムによって、異文化に対抗するため
だった。
(磯崎新「イセー始原のもどき」『建築における「日本的」なもの』)
このような状況は、天武・持統帝に仕えた宮廷詩人柿本人麻呂にもあてはまる。異文化に対抗するためのナショナリズム、土着文化の特性、島国のことば、抒情詩。
人麻呂は、島国の人々の感情に訴えることばとして、叙事詩より抒情詩を、「選択的に用い」たのだ。
日本語の文芸は、この時の「お国ぶり」の創出を嚆矢として、歴史上なんども繰り返すことになる。
本居宣長に代表される幕末、維新期の国学運動然り。
明治維新以降の近代主義に対抗すべく勃興した、日本浪漫派然りである。
そして、太平洋戦争の壊滅的な敗戦を迎え、戦後、占領国アメリカによる日本国憲法の発令となる。
われらが現行憲法、前文の誕生である。
小田嶋隆は、「日本語でね、本当の事を言おうとすると、詩になるんですよ」と、言い残して亡くなった。
その真意をつかみかねていたが、今なら理解できる気がする。
先のことばに続いて、
日本語って、本質をちょっと脇に置いといて、違う言い方をする方が高度なことが言える言語でしょ。英語って、AはBであるって断言しないと、詩にならないっていうか、言葉として成立しないんですよ。そこが違いじゃないかと思うんですけど。
(『mal"03 特集小田嶋隆』)
美し過ぎる日本国憲法前文は、「本質をちょっと脇に置いといて」どころではない。
どストレートに本質を訴えている。
人麻呂の長歌、叙事詩に通じるものがある。
しかし、人麻呂が叙事詩から抒情に転じて以降、日本語文芸の歴史に、そのような表現は、ほとんど登場してこなかった。むしろ、外敵や異文化から身を守るため、好んで抒情に、抒情性の鎧を、まとってきたのではないか。
抒情とは、脇をほんの少し照らすことで、本質をぼんやりと浮かび上がらせる手法である。小津安二郎の映画で頻繁に用いられる技法でもある。
決して、ものごと、出来事の中心、本質を照らし出さない。
現行憲法前文のような表現は、日本語文芸の世界では、「詩にならない」と、一蹴されてしまうのである。
しかし、である。
外圧だ、押し付けられた憲法だ、などといって、またしても抒情に逃げ込むのか。
日本国民は、
国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、
基本的人権を尊重するとともに、
和を尊び、
家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
(自民党 日本国憲法改正草案 前文 一部抜粋)
自民党改憲草案前文にある「誇り」や「気概」、「和を尊び」「家族や社会全体が互いに助け合って」など、情緒的な言葉を連ねた文芸の方が、詩になってしまうとすれば、詩とは何なのか、もう一度考え直さねばならない。
小田嶋隆は、「日本語でね、本当の事を言おうとすると、詩になるんですよ」と遺言のように言い残し去っていったが、本当は、「詩になってしまう」と、あるいは「詩にならざるをえない」と、言いたかったのではないだろうか。
それは、反語的に、日本語文芸の限界を、主張していた。
詩というのは日本語の致命的なところの、喉首を押さえているような文芸じゃないかと思うんですよね。
(小田嶋隆・前掲書)
最後に発せられた小田嶋隆のことばを、今は、重く受け止めている。
押さえられた喉首から、ひとつひとつを解放し、日本語の、新たな「詩の発生」を、念じてやまない。