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今朝平遺跡 縄文のビーナス 16:花の氏神

ここからは両地とも土偶の出土している2ヶ所の遺跡、豊田市足助町久井戸の今朝平遺跡(けさだいらいせき)と刈谷市天王町4丁目の本刈谷貝塚(もとかりやかいづか)を結んだレイラインKM(仮称)上を愛知県内に限定して辿ることにしました。南西方向から北東方向に向かうことにして、昨年の8月上旬、最初に知多郡阿久比町(あぐいちょう)にある福住縣神社(ふくすみあがたじんじゃ)に向かいました。

愛知県 今朝平遺跡/本刈谷貝塚
レイラインKM 福住縣神社
レイラインKM 福住縣神社

名古屋市内を横切っている国道23号線から中部国際空港 セントレアに行くための自動車専用道路である知多半島道路を利用して南下。
福住縣神社はセントレアに向かうために右折する半田中央JECの4kmほど手前の阿久比ICの東側に位置している。
阿久比ICから知多半島道路の東側に並行して走っている県道55号線に移り、少し北に戻る感じで福住縣神社に接近した。

福住縣神社

このあたりは住宅は多いものの、密集しておらず、まだ農地や空き地も多い環境だ。
北に向かう55号線から右折して幹線道路を東に向かうと、130mあまりで北に向かって分岐するT字路があり、その分岐する入り口に「村社 縣神社」と刻まれた社号標が立てられていた。

愛知県知多郡阿久比町 福住縣神社

社号標の奥に向かって上り坂になっており、上り坂は40m以内でY字に分かれており、右に向かう道は一般道、左への分岐は福住縣神社の石段になっているようで、石段の麓には南向きの石鳥居。
石鳥居の奥には濃い社叢が立ち上がっている。

愛車を幹線道路脇の路肩に駐めて徒歩で鳥居に向かうと、道の左脇に鮮やかなサルスベリがピンクの花を満開にさせていた。

知多郡阿久比町 サルスベリ

鳥居の麓まで登って鳥居を見上げると、珍しい石造の台輪鳥居であることが判った。

阿久比町 福住縣神社 社頭

石鳥居の先の石段は途中に踊り場を持った長い石段で、石段の上には瓦葺の屋根がのぞいている。
境内には白地に墨文字の幟が林立しているのだが、何より珍しいのは鳥居のすぐ奥の左右が花壇になっており、色とりどりの花で埋まっていたことだ。
この社頭を見て、神社と花の組み合わせは無くは無いが、花壇は神職の居住する神社で趣味で栽培をしている例は見たことがあるが、普段は無人の神社では見たことがないことに気づいた。
明らかに氏子が花壇の面倒を看ているのだろう。

花はすべてキク科の種だが、複数の色を組み合わせてある。

福住縣神社 花壇

鳥居をくぐって、石段を上がり、踊り場からくぐって来た鳥居を振り返ると、両側には住宅、下り坂の突き当たりは水田、水田の奥には森に包まれた丘陵の尾根が連なっているのが見える。

福住縣神社 社頭

石段の左右に立ち並ぶ幟には五三の桐の神紋が入っていた。

福住縣神社 神紋

●桐紋
Wikipediaで「桐紋」の項目を見ると、以下の説明がある。

古代中国で「鳳凰が棲む」という謂れのある桐とは、アオギリ(梧桐)である。日本で桐紋が使われるのはこの伝承に倣ったものだが、桐紋としてデザインされているのは別種のキリ(白桐)である。

Wikipedia「桐紋」

『詩経』大雅・巻阿に「鳳凰鳴矣、于彼高岡。梧桐生矣、于彼朝陽」とあることや、『荘子』秋水篇に鳳凰は梧桐の木にしかとまらないと言うことから、古代中国では鳳凰が棲むのはアオギリであり、「日本で桐紋が使われるのはこの伝承に倣ったものだが、桐紋としてデザインされているのは別種のキリ(白桐)である。」と説明されている。
普通なら、古代中国ではアオギリ、日本ではキリなら別の文化と考えるのに、「日本で桐紋が使われるのはこの伝承に倣ったものだ」と根拠なく断定されている。
日本の『ホツマツタヱ』によれば、キリ(桐)はキク(菊)とともにククリヒメ(菊桐姫)の名前の由来になっているが、これは古代中国より前の時代の縄文時代の話であり、古代中国とは無関係だ。
菊と桐を組み合わせた装飾は神社建築にはよく見られるものだし、ククリヒメの役割が男女(イザナギ・イザナミ)を仲介するものとするなら、「菊桐」は「仲介」の暗喩とも考えられる。
実際Wikipedia「桐紋」の項目には「菊桐」の蒔絵(まきえ)装飾のされた提子(ひさげ)酒器の写真が紹介されている。

だが、そこに鳳凰の姿は無く、この装飾を古代中国と結びつけるのは無理があり、明らかに桐と菊の組み合わせに意味があるものなのだ。
酒器というのは酒を共にする人間同士を結びつける酒を注ぐための道具であり、そこには「仲介」の意味が込められている可能性があると思えるのだ。

それはさておき、石段を登りきり、麓を振り返ると、石段の両側には隙間なく白い幟が並んでいるが、その幟には五三の桐神紋のほかに「福住縣神社」の社名が入っている。

福住縣神社 石段 幟

「福住」は知多郡阿久比町の字名だが、由来は不明。
「阿久比」に関してはWikipediaに以下の歴史が紹介されている。

●阿久比町
「あぐい」の地名が残る最古の記録は、藤原宮跡から出土した甲午年(西暦694年)記年の木簡で、「阿具比里」と記されていた。その後、平城京の木簡に実例がある、漢字二字による当て字として「英比」が用いられるようになり、平安時代以降は知多郡英比郷と呼ばれ、また阿古屋、安古居など様々な用字で書かれた。
中世の後期、この地の支配者として久松氏という菅原姓を名乗る武士が歴史に登場する。久松氏の系譜によれば、久松氏が当地に根付いたのは南北朝時代に後醍醐天皇に仕えた菅原定長の子、定範が尾張国知多郡目代に任ぜられて英比郷に土着したのに始まるといい、久松の名字は、定長の先祖である菅原雅規が幼名の久松麿を名乗っていたとき、901年(昌泰4年)1月に祖父の菅原道真が失脚したのに連座して流された先が尾張国の英比であったという縁によるとされている。

Wikipedia「阿久比町」

石段を登りきると社叢は開けていた。

福住縣神社 拝殿

石段からは石畳の表参道が真っ直ぐ10mあまり延びており、瓦葺入母屋造平入の拝殿が1.2mほどの高さの石垣上に設置されている。
拝殿の躯体は板壁で正面には格子戸が閉め切られ、軒下には「縣神社」の金箔押しされた文字の入った扁額。

拝殿前に上がって参拝したが、社頭に設置された教育委員会の製作した案内書『縣神社』には以下のようにあった。

●縣神社
縣神社の祭神は「大縣主命(おおあがたぬしのみこと)」、 「仁徳天皇」 の二柱で、 福住地区の氏神となっている。
福住村の氏神、「二ノ宮大明神」 として社殿の造営を明暦4年 (1658) に行った。「二ノ宮阿多神社」ともいわれていたが、 明治12年(1879) 現在の縣神社に改名 された。 大正元年(1912)には、福住の荒古にあった若宮八幡社が合祀された。
石段を登るにつれて、身をつつむような緑陰が鎮守の森の荘厳さを伝えてくれる。 社宝の氏神面である「翁の面」は、永禄3年(1560)桶狭間の合戦後、 福住村の住人となった今川方の家臣岡戸祢宜左衛門が所有していたと伝えられている。 この地方は旱魃の年が多かったので、この氏神面はその時々に雨乞いの神事に使用され、恵みの雨をもたらしたということである。 昭和36年(1961)愛知用水完成後は行われていない。
縣神社の祭礼は10月第1日曜日に式典を行っていた。 昭和59年(1984)に境内にある津島神社の提灯行列「津島まつり」が復活したのをうけ、縣神社の祭礼前日にも提灯行列を行うようになった。 郷土の人々の絆を結び合う 「宵(よい)まつり」 である。

『縣神社』案内板 阿久比町教育委員会

拝殿内を見ると、比較的新しいとはいえ、床などが見事に磨かれ、埃っぽさがまったく感じられなく、見事に整理されている。

福住縣神社 拝殿内

奥には幣殿があり、机の上には3基の御幣が立てられていた。
ここにも無駄なものは一切置かれていない。
氏子がここまでしっかりしている場所は少なくなっている。
どういう人たちが住む町なのだろうか。

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花壇といい、幟が見事に石段を埋め尽くされていることといい、拝殿内の美しさといい、神職が常駐していない神社としてはめったに遭遇することのない見事な神社でした。経済的に豊かなのだろうかと、阿久比町の産業を調べてみると、米どころとして知られ、ホタルが見られるというので、農薬を使用していないのでしょうか。阿久比町を説明する言葉として、他に「花かつみ(ノハナショウブ)」、「菊づくり」とあり、福住縣神社の花壇のキク科の花の謎が解けました。「菊づくり」と「五三の桐」の関係は記事内に書いた「菊桐姫」とシンクロしています。そして、この地は徳川家康の母、於大の方が14歳で岡崎の松平広忠に嫁ぎ、15歳で家康を産み、政略的に離別させられた後も家康と音信を絶やすことなく、15年間を過ごした場所とのことです。

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