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今朝平遺跡 縄文のビーナス 83:等身三頭八臂の馬頭観音
2023年8月 愛知県豊田市御所貝津町(ごしょがいつちょう)の誓約神社(うけいじんじゃ)から稲武線と町道ソト田線を経由してシロ山の超急坂を登り、山頂に本殿の祀られた武節町の城山神社(きやまじんじゃ)に向かいました。城山神社は直線距離で誓約神社の東南東650m以内に位置し、飯田街道(国道135号線)の北側20m以内に位置していますが、この部分の飯田街道はトンネルになっています。ちなみに来年の7月4〜6日はこのトンネル周辺の温泉宿に宿泊しようと考えています。
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コンクリート舗装された山道を西側にある登り口から登っていくと、山頂下の開けた場所に出た。
そこから山頂に向かう階段脇に石造伊勢鳥居が設置されていた。
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鳥居の柱に取り付けられた榊は天孫族の祀られた神社であることを予測させる。
広場の端に愛車を駐めて、鳥居をくぐって表参道に入り、石段を上がって頂上に向かうと、右手には石造物や社殿が並び、最奥に普通の民家のような大きな社殿があった。
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赤い瓦葺切妻造棟入の拝殿だった。
拝殿の正面は向拝屋根のトタン張屋根の庇が出ていて、中央にガラス格子戸が締め切られ、壁はトタン張になっている。
拝殿前に設けられたガラス張の燭台前で参拝した。
拝殿内は暗くて何も見えない。
境内に神社の案内は見当たらず、祭神をネットで調べてみると、ウェブサイト『八百万の神』の「城山神社(キヤマジンジャ)」の項目に以下のようにあった。
・八幡大神
・琴平大神
・稲荷大神
・大山祇大神(オオヤマヅミ)
・天照大神
・秋葉大神
・津島大神
https://yaokami.jp/1231601/
八幡大神・琴平大神・稲荷大神の3柱は秦氏系の神、大山祇大神・天照大神・秋葉大神・津島大神は天孫族と2分できる組み合わせだ。
大山祇大神・秋葉大神(カグツチ)・津島大神(スサノオ)の三柱はいずれもスサノオの別名とみることができるが、スサノオと天照大神は、さっき寄ってきた貝津町 誓約神社の祭神、五男三女神の親神であり、
両社の祀られた山が向かい合っているのは偶然ではないことになる。
最高神の天照大神が天孫族サポーターの神々の下位に並べられているのは、この神社がかつては八幡神社であり、天孫族は後で合祀されたからのようだ。
拝殿脇をすり抜けて、本殿が分離された社殿なのか観にいくと、やはり民家のような覆屋が別棟になっていた(ヘッダー写真丘の上左手の赤い屋根の社殿)。
全体を画角に納めて撮影できるスペースは無かったので、丘の下から撮影したヘッダー写真しか残っていない。
ヘッダー写真に「武節城址」の城号標があるのは、城山神社本殿が、かつての武節城本丸址に建造されているからだ。
丘の下の広場に掲示された「武節城」案内板によれば、武節城は室町時代に菅沼定信によって築城され、安土桃山時代の城主奥平信昌を最後に廃城になった城だという。
本丸には物見台や狼煙台があったという。
拝殿前から表参道を戻ってくると参道南脇に「金毘比羅大権現」と刻まれた石碑が祀られていた。
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本殿に琴平大神が祀られていることから、ここに持ち込まれたものだろう。
参道を下って広場に降りてくると、丘の上の本殿の下に銅板葺切妻造平入りコンクリート造の覆屋が建てられていた。
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扉は無く、奥の棚の上に神棚が納められている。
総素木造の神棚は極限まで焼けていた。
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この境内社前にも、本社拝殿前に設置されていた燭台と同じものが設置されていた。
この境内社に関しては情報が無く、祭神は不明だ。
鳥居のある広場の北の端から下を見下ろすと眼下に稲武町の町が広がっていた。
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誓約神社は上記写真の左外側に位置している。
1571年(室町時代)4月、武田信玄は2万5千の軍勢を率いて飯田から来訪し、現在の稲武町(上記写真)を右から左に通過し(武節城は無条件降伏)、現在の足助町に向かい、足助城を落とし、現在の新城市を攻め、力を示すと、甲州に帰還した。
後の飯田街道を移動したことになる。
武節町 城山神社を下って飯田街道に出て、東に向かい、140mほどの
トンネルをくぐり、名倉川を渡って、170mあまり東で稲武線と飯田街道が集合する稲武町交差点から、さらに東の愛知県側最後の峠のある野入町に向かって飯田街道の坂道を登った。
稲武町交差点から左にカーブする坂道を登ると、140m以内の右側に大きな石仏を納めたトタン張入母屋造棟入で吹きっ放しの観音堂が存在する。
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堂内には中央に石仏が奉られ、手前左右に変速八角形の基壇を持つ円柱の素木の柱が建てられていて、それが妙にお洒落に見える。
その石仏は三頭八臂(さんとうはっぴ:3つの頭と八本の腕)の等身仏(人間と同寸の仏像)だった。
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正面で根本馬口印を結び(下記記事内に図版)、
左上から持物、あるいは印は棍棒・斧・施無畏印(せむむいん)。
右上から金剛輪宝・金剛棒・念珠だ。
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施無畏印とは右手の5本指をそろえて伸ばし、手のひらを前に向けた印で、仏が衆生の恐怖心を取り去って救う為の印。
観世音菩薩を示す印とされている。
中央の逆立った頭髪内には獣の頭部が浮き彫りになっており、左右の顔は牙を剥いた忿怒相(ふんぬそう)になっている。
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この観音堂から飯田街道を挟んで向かい側には臨済宗妙心寺派の寺院、秀雲山瑞龍寺が存在する。
この馬頭観世音菩薩は瑞龍寺の前身の寺院に祀られていた石仏だと思われる。
等身の馬頭観音像に遭遇したのは3体目。
他には瀬戸市と秩父市で遭遇している。
最後に豊田市から長野県への入り口部分の飯田街道の様子を紹介する。
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路肩左手に以下の大きな縦看板が出ていた。
「ようこそ信州へ!!
矢作川源流の郷 根羽村」
稲武町の次の大きな住宅街が根羽村(ねばむら)。
看板手前には入川(いりがわ)が飯田街道下を横切っており、入川が県境になっている。
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矢作川(やはぎがわ)下流沿いの豊田市市街地から豊田市稲武町まで、飯田街道を辿る道程は以上で終了です。続いて豊田市を代表する山、猿投山(さなげやま)登頂記を紹介します。