伊川津貝塚 有髯土偶 25:B級蛇毒気神
愛知県名古屋市南区笠寺町の天林山 泉増院の北20m以内に位置し、泉増院と同じく、笠覆寺(りゅうふくじ)の塔頭(たっちゅう:宿坊)の1院である天林山 西方院(さいほういん)に向かいました。西方院は現在も真言宗智山派の寺院です。愛車は塩付街道(しおつけかいどう)の路地から、笠覆寺の西門脇(旧東海道&塩付街道)に移しました。
西方院の山門入口は敷地の南東角にあり、旧東海道(塩付街道)に面している。
入口には泉増院の献灯ゲートと同じ朱塗りのゲートが設けられ、ゲートから山門に向かってなだらかな石段になっている。
山門をくぐれば、本尊の不動明王を祀った本堂前に出るが、個人的には一度もここの山門をくぐったことがない。
山門に至る直前に表参道から分岐して北に延びる脇参道があって、そこには2種の白地に墨書きされた幟が林立していた。
一つは大型の幟で、これは3本のみ。
頭頂に下がり藤紋が入っており、
続いて「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」の墨文字が入っている。
もう一つは小型の幟で「粕畠観世音菩薩(かすばたかんぜおんぼさつ)」の墨文字のみだが、10本以上が纏まって林立している。
この2種の幟には玉照姫が関わっている。
『笠寺観音と玉照姫の歴史』には以下のようにあるが、「笠寺観音」とは天林山 笠覆寺の通称である。
『笠寺観音と玉照姫の歴史』によれば、幟に藤原兼平公との関係で藤原氏の多用した下がり藤紋が入っているのは明白である。
さらに「粕畠観世音菩薩」幟の「粕畠」というのは笠覆寺の前身である天林山 小松寺のあった地名(西方院の南570m以内)である。
そして、幟にある「烏枢沙摩明王」は『大威力烏枢瑟摩明王経』などの密教経典に説かれ、信仰された明王の一尊だという。
『 精選版 日本国語大辞典』の「烏芻沙摩明王」の項目によれば「不浄を転じて清浄となす働きを持ち、憤怒尊として炎に包まれている。」とあり、心の浄化はもとより日々の生活の中でのあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとされ、あらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏だという。
これらの幟に取り囲まれて瓦葺切妻造平入で千鳥破風と向拝屋根を持った白壁の笠寺明王堂があった。
堂内中央の天井からは赤地に「笠寺明王」と墨書きされた丸型提灯が下がっている。
堂内の須弥壇には中央に烏枢沙摩明王像を納めたと思われる厨子が置かれているが、この日は開帳されていなかった。
須弥壇には向かって左に弘法大師像、右の左端に笠で覆った十一面観世音菩薩と思われる仏像、そしてその右端にも閉じられた逗子が奉られていた。
幟にある「粕畠観世音菩薩」とは、この十一面観世音菩薩のことだろう。
西方院から塩付街道を兼ねた旧東海道を熱田宿方向に向かった。
780mあまりで北に向かう旧東海道と東に向かう塩付街道が分離する十字路に到達したが、この十字路で旧東海道から離れ、西に向かうと、120mあまりでレイライン上に位置する富部神社(とべじんじゃ)社頭に到達した。
富部神社の西80m以内には海岸線が迫っていた時代もあり、推測にすぎないが、塩付街道の最北の起点が富部神社社頭周辺にあった可能性があると思われる。
富部神社の社頭は非常に雑然としており、こんなに落ち着かない社頭も珍しい。
社頭前で一般道がL字に折れており、エネルギーが素直に流れていない感じがする。
社頭左脇の社号標には「郷社 式外 富部神社」と刻まれている。
わざわざ「式外」を名乗る目的もよく判らない。
社頭脇の玉垣前に愛車を駐めて石造明神鳥居の前に立つと、社頭額には黒地に金箔押し文字という意味ありげな配色で「富部神社」とある。
表参道は入口から細かな砂利が敷き詰められていた。
鳥居の奥、80mあまりの場所に神門らしき建物が見えている。
鳥居をくぐって30mあまりの社叢のトンネルをくぐり抜けると、空が開け、落ち着いた気持ちの好い空間に転換した。
表参道の終着点には銅板葺切妻造で白地の神前幕の張られた神門があり、両袖に廻廊が延びている。
神門前に至ると、神門の4脚の柱だけが緋色に染められており、他の木部は垂木の小口の白以外はすべて黒く染められていた。
社頭鳥居の社頭学の地の黒と山門、廻廊の黒染めは合わせてあるようだ。
白い神前幕には墨で木瓜紋が染められている。
賽銭箱は柱の朱塗りに合わせて緋色だ。
気づくと神門の格子戸越に緋色の建物が透けて見えていた(ヘッダー写真)。
神門前で参拝したが、境内に掲示されていた案内書『国指定重要文化財神社 富部神社』には以下のようにあった。
●蛇毒気神とは
「じゃどくけのかみ」とは強烈なネーミングだ。
米国のB級ホラー映画『悪魔の毒々モンスター』を思い出してしまった。
原題は『The Toxic Avenger(毒のある復讐者)』で、日本公開タイトルほどのパワーはない。
それはともかく、縄文人にとっても、神道でも、日本を代表する毒蛇のマムシは特別な蛇だったようだ。
縄文人にとって、マムシは大切な穀物を食べてしまうネズミを捕食してくれる存在であり、その存在が土偶の一部のキャラクターに反映されているとする説もある(反映されているのはレプティリアンだとする人たちもいるが)。
一方、神道では牛頭天王は疫病を防ぐ神であり、ここ、かつての蛇毒天王社では牛をトーテムとしながら毒蛇を習合させてのハイブリッドパワーで疫病を防ぐ力を増幅させようとしたのだと思われる。
大和では、それくらい怖い疫病が流行った事例があったのだ。
時は737年(奈良時代)、4人の藤原氏兄弟が要職に就き、大和の最高権力奪取に成功しようとしていた前夜、都で天然痘が流行すると、4兄弟全員が感染して亡くなってしまったのだ。
さらに995年(平安時代)にも、天然痘が流行し、藤原氏のNo.1とNo.2の二人がまたしても感染して亡くなってしまったのだ。
今で言えば、兄弟で総理と副総理を務めていたら二人ともコロ○感染で亡くなったようなものだ。
なので、毒を制すには毒をという発想が働いたのだと思われる。
神門の柱の緋色は素戔鳴尊(スサノオ)の娘である宗方三女神と菊理媛神の4女神を合祀したことと関係があると思われる。
さらに富部神社が黒印地を尾張徳川藩主から受けていたことが、社頭額の黒地と神門木部の黒染めに反映されているのだと思われる。
黒印地とは「お墨付き」の語源になった神社仏閣が武家からの寄進や安堵された領地を示す書類=黒印状のことだという。
富部神社の神紋である木瓜紋は総本社である津島神社の神紋と同じものだ。
それは唐花を木瓜の断面を枠にして囲った神紋だ。
「花(はな)」はイザナギが「鼻(はな)」を濯いだ時に化成した素戔鳴尊を示すものであり、同時に素戔鳴尊の娘たち三女神を表すものでもある。
一方、木瓜は水流に乗って寄り付くものであり、外来者である素戔鳴尊の素性を示すものと言える。
本殿を見ようと廻廊の脇に回ってみると、神門奥側の廻廊は予想外の瓦葺の築地塀になっていて、木造の前面廻廊との間に切れ目があった。
木造の廻廊と築地塀の組み合わせは神仏習合のセンスを感じる。
その躯体は白い木口以外は神門柱と同じ緋色に染められ、深紫の神前幕には木瓜紋が白抜きされていた。
脇障子には他社では見たことのない彩色された2羽の鶴と樹木(松?)の装飾画がはめられていた。
もう、木彫の脇障子を製作できる職人が少なくなっているだろうことなどから、風化に耐久力のある陶板画を採用したものと思われる。
こうした合理性からは密教寺院のセンスを感じる。
この本殿に関して案内書『国指定重要文化財神社 富部神社』に以下の記述があった。
(この項続く)
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日本列島は海に囲まれ、河川も多いことから海から寄り付くものや洪水で上流から流されてくるものが多く、日本人はそうした非日常のものに神性を感じて奉ることがあります。寄り付くものは物体だけではなく異図を持つ人類も含まれます。素戔鳴尊も、そうした人類の一人であった可能性は高いと思われます。
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