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言葉にすると極端になる
「あなたはそのままでいいんだ」
「あなた以外の何ものになる必要はない」
過去のマスター達(グル)の教えなどでこのような言葉を聞いたことがあると思います。
では、皆さんはこの言葉通りに生きるとしたら、どのように生きるでしょうか?
何の努力もしなくなるでしょうか?
我がままに生きるでしょうか?
好きなことだけして、辛いこと嫌なことから逃げ回るでしょうか?
だいたいこれに近いことを想像したのではないでしょうか。
ですが神の心は弥栄ゆえに努力しなくていいわけではありません。
また神の心は調和ゆえに我がままではいけません。
そして神の心は歓喜ゆえに逃げ回っていては喜べません。
現在は様々な情報を簡単に得られるため、過去の覚者、聖者と呼ばれる導師(グル)達の言葉を目にする機会も多くあります。
ですが多くの人達はグルの言葉に引っ掛かってしまいます。
なぜなら言葉とは極端で、実相の片面しか現わすことが出来ないからです。
実相である不二は言葉では現わすことが出来ません。
それは言葉を超越しているからです。
たとえばグルが左に行きなさいと言った時、右を否定しているわけではありません。
右に片寄りすぎているから左に行けと言っているだけです。
故に弟子の学びの状況によっては正反対のことも平気で言うんです。
グルがいるのは立体の中心で、どこにも偏らないから、矛盾することがありません。
人がいるのは平面の極端だから、両極が存在し、矛盾が生まれます。
これが迷いや間違いをつくり出しています。
グルの立場から見ると人の偏りが手に取るようにわかります。
それ故にグルはその人にあった教えを説くことが出来るんです。
お釈迦様の行った待機説法がまさしくそれです。
私の師匠が『あなたたちに必要なのはグルだ』としつこく言っていたのはこのような理由があるからです。
だから過去のグルの本を読むことも薦めませんでしたし、『グルの言葉は方便だから気を付けろ』と注意していたくらいです。
以下は師匠から立体について教えられた時のお話です。
【師匠の教え】
俊和さん、立体を理解しなさい。
事物は立体をなしているのです。
表だけ裏だけの物はなく、表があれば裏があり、裏表は本質的には同じですが裏と表は同じだとも言えません。
それは表であり裏であるからです。
正しく不二を語れば一つとも二つとも言えない、または一つでもあり二つでもあるんです。
裏と表も、善と悪も、有と無も同じ物とも異なるものとも言えないものでしょう。
裏と表は一つでは間違ってはいませんが、正しくもない。
この見解は一方的で具体的過ぎます。
一でもあり、二でもあると言えば一でも二でも無いことを現します。
智的人は一にあらず、二にあらずと言い、情的人は一であり、二であると言います。
この言い方は同じことの二つの対極の言い方で、私はないと、一切は私に対応してます。
同じことを言い現す、二つの言い方があり、これもまた同じであって異なっています。
向きが異なるからです。
同じことを現すと二つの言葉ですね。
ヨハネの黙示録でヨハネに未来の幻影を見せた者はこう名乗ったそうです。
私はオメガであり、アルファーであり、始めであり、終りであるものと。
これは神のもう一つの名前です。
一にあらず二にあらず、または一であり二であるとは何かに似てませんか?
観照に似ています。
主体と客体が溶け合って主体とも言えず、客体とも言えない。
それは観照とは主体でも客体でもあるからです。
観照こそ不二なのです。
真理とは二にあらず、一にあらず。
または一であり、二であると言う様にどちらと言えるものではありません。
言葉では二にあらず一にあらずは、二でも一でもないのかと、一でもあり二でもあるは、一でも二でもあると理解が出来ます。
では二にあらず一にあらずとは、一であり二でもあるとは、観照とはどの様なものだと聞かれたら言葉では答えられないのが真理の特徴なのです。
不二とは真理を言葉で現す限界の言葉なのです。
ですから本当の理解は沈黙でするしかありません。