人間は罪の子だと言われることがあります。 確かに人間は皆がグルや聖者のように生きていません。 そして大なり小なり過ちを犯すものです。 「だから人間の本質は悪だ」「世界は絶対に平和にならない」と結論を急ぐ必要はありません。 グルや聖者も最初からそうだったあったわけではありません。 皆と同じように様々な過ちを犯していました。 唯一、違うところは無常や苦しみに気づき、改心しただけです。 無常や苦しみは一見、必要ないもの、意味のないもののように見えます。 ですが物事一
人は自由であることに生きる意味を感じています。 皆さんは自由についてどのようなイメージを抱いているでしょうか? 何でもあり、思い通りになる、制限がない、何ものにも縛られないなどいろいろと思いつくかもしれません。 では仮に何でもありな世界が自由だとして、どうなるか考えてみます。 何でもありだからから犯罪し放題になります。 何でもありだから三大義務(教育、勤労、納税)を守る必要はありません。 何でもありだから基準がなく、どうしたらよいのかわかりません。
私が師匠から教えを請うようになったのは師匠のブログ記事を読んだのがきっかけでした。 師匠のブログは宗教的な話、過去のグルの話、科学的な話、スピリチュアルな話など幅広い視点から語られていました。 話の内容は半分くらいしか理解できませんでしたが、私が知りたかったのはこれかもしれないという直感のもと、ひたすらブログ記事を読み込む日々が続きました。 何かが変わってきた感触があったので感謝のメールを送ると師匠から「掲示板でお話しませんか」との誘いを受け、そこから掲示板での対
多くの方達は何らかの趣味を持っていると思います。 趣味に対しては時間と手間と情熱を惜しむことなく注ぎ込んでいるのではないでしょうか。 また他者から見ると面倒くさい、キツいと思われる趣味でも楽しんで行っているのではないでしょうか。 趣味が元で元気になったり、良い人間関係を築けたりと良い影響を受けている方もいると思います。 人が趣味に没頭するのは喜びを感じるからです。 どんな趣味であっても、喜びの探求という点では皆、同じはずです。 神の心は歓喜、弥栄です。
師匠の教えは大変厳しいものでした。 正確に言うと師匠はただ本音を言っていただけで、私が勝手に厳しいと決めつけていただけでした。 なぜ厳しいと感じたのかというと本当の事を言われたからです。 人というのは本音と建前で生きています。 人から良い評価をもらうために、人から悪く思われないために等、つまり自分のために人は本音を隠し、建前という嘘で生きています。 当然のことながら人はこの嘘がバレることを恐れます。 師匠の本音はその嘘をさらけ出すため、厳しいと感じたわ
ある意味において人は皆、思い通りの人生を生きています。 なぜなら信じていること(内側)が現実(外側)に現れているからです。 人によっては結果(外側)だけを求め、原因(内側)を軽視する方がいます。 ですが上記にあるように、望むような結果を得ることはありません。 当たり前のことですが、信じていることと望んでいることは違います。 人は信じている通りにしか生きられません。 よく考えて見てください。 皆さんは自身が信じてないものを選択することが出来るでしょう
エゴが強い人、自分勝手な人、わがままな人。 このような人達を世間では悪と見なし、裁く傾向にあります。 では赤子は自分勝手に泣いたり、わめいたりしますがこれは悪でしょうか? おそらく悪と思う方はいないと思います。 同じ自分勝手でも赤子と大人では意味が違います。 赤子の自分勝手とは他者の立場があることを知らない故に、純粋な意思表示に過ぎません。 対して大人の自分勝手とは他者の立場を無視する故に、悪意の我善しです。 我善しが一切の苦しみの元凶と言われます
全ての人には赤子であった時があります。 赤子は純粋無垢で穢れがない故に限りなく悟りに近いと言われます。 ですが世俗世間での体験によって穢れ(めぐり)ていき、エゴが発達し『普通の人間』となっていきます。 一切の体験は神が与えます。 なぜ神は純粋無垢な人間に対して、わざわざ苦しみに向かう体験を与えるのだろうと私は不思議に思ったことがあります。 人の歓喜、弥栄を望む神が苦しみを与えるのは矛盾しているように見えますが、それにも理由があります。 悟りとは人の本性
『ノーマインドになりなさい』とグル(導師)達は言います。 思考を停止させなさいと言っているわけですが、人間の思考とは絶えず、湧き出ており止まることを知りません。 皆さんも意識せずとも勝手に思考が現れているのを感じたことがあると思います。 思考は心が動くことによって現れます。 逆に言うと心が動かなければ思考は現れません。 ではなぜ心が勝手に動いているのでしょうか? 心に、思考に、感情に力を与えているからだとグル達は言います。 それらを『私のもの』と見
皆さんが知っている法則に因果と言うのがあります。 ご存知のとおり原因と結果は一致するということです。 では結果が先で、原因は後だと言われたらどう思うでしょうか? おそらく多くの方が原因が先で、結果が後と言うのではないでしょうか。 ですが因果は『原因と結果は一致する』と言っているだけで、原因が先で結果は後とは言っていないんです。 人は限定された範囲で物事を見るため原因が先で、結果が後に見えているだけなんです。 原因と結果が一致している限り、順序がどうなろ
苦しい、辛い、嫌だと感じるのは心です。 この心の動きを完全にコントロール出来れば一切の心の問題は解決するはずだ、との思いで私は心に関する本を読み漁った時期がありました。 ですが心はコントロール出来ない、との結論に至ったため失望し、無気力になったのを覚えています。 師匠から学んでしばらくして、私がこのようになってしまったのは心は自分だ、という前提でいたことが原因だとわかりました。 思いや考え、感情を自分のものとして同化しているのが人間だと言われます。 自分、
人間の記憶、価値観、性格などは体験によりつくられると言われます。 体験はそれぞれの世界により違います。 奪い合う世界で生きれば奪うことが正しいこと、普通のことになります。 争い合う世界で生きれば争うことが正しいこと、普通のことになります。 騙し合う世界で生きれば騙すことが正しいこと、普通のことになります。 憎しみ合う世界で生きれば憎むことが正しいこと、普通のことになります。 思いやりの世界で生きれば思いやりが正しいこと、普通のことになります。 皆さ
人間の行動はあることによって決まります。 それは何かというと損得勘定です。 自分にとって損か得か? より得するものはどれか? 一番、損をしないものはどれか? 皆さんが何かを選択する時、必ず最善と思うものを選んでいるはずです。 最善のものが選べる状況でわざわざ違うものを選ぶ人などいないと思います。 人の価値観がそれぞれ違うため損得勘定の内容に違いはありますが意識する、しないに関わらず人間の行動原理には必ず、この損得勘定があります。 日月神示には算
世間一般で言われる良いこと、正しいことは不変ではありません。 例えば人に何かをしてあげることは良いことだとされています。 しかし、それで相手が努力することを放棄してしまうことになれば良いこことは言えなくなります。 また勉強し、知識を得ることは良いこととされています。 しかし、その知識を悪用すれば良いこととは言えなくなります。 あるもの一切には裏表があると言われます。 善悪、高低、強弱、明暗、寒暖、上下、出入、昼夜、男女、大小、自他、貸借、有無、得ると失
ある人の行為に対してAさんは良いと言い、Bさんは良くないと言い、Cさんはどちらでもないと言います。 このようなことは普通にありますが、なぜ同じ行為なのにこうも違ってくるのでしょうか? 皆さんも察しのとおり人それぞれに考え方が違うからです。 積み重ねてきた体験が違うから当然、考え方も違ってきます。 この考え方が事象を見て判断を下しているわけですが、人それぞれ違うということはそれだけの数の判断が存在しているということです。 人間は常に判断し、行為していますが自
人間は一人一人、じつに様々な特徴を与えられています。 身体能力に優れた人もいれば、頭脳の優れた人もいます。 手先が器用な人もいれば、創造が得意な人もいます。 視野の広い人もいれば、もの覚えの良い人もいます。 積極的な人もいれば、消極的な人もいます。 楽観的な人もいれば、悲観的な人もいます。 冒険心にあふれる人もいれば、保守的で慎重な人もいます。 また好きこそ物の上手なれと言われるように、人それぞれに好きなものが違い、それに伴って得意なものも様々です