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得るものも失うものもない

得るものは必ず失うものだと言われます。
肉体も財産も記憶も名誉も永遠に持つことは出来ません。

では悟りに関しても同じなのでしょうか?
かつて師匠から『悟りとは得るものではない』『悟りとは究極のリラックスである』と教わりました。

仮に悟りが失うものなら人の心に平和が訪れることはなく、どんな教えや修行も意味がないものなります。
神は一切の幸福を願っているので人から平和を奪うことなどありえません。

更に師匠は『あなた方の本性が悟りだ』『あなた方はそれに気付いてないだけだ』と言います。

人本来の姿が悟りですが、汚れや曇りがあるから、それに気付けないのだと言われます。
汚れ、曇りとは個人があるという前提からくる思いで、自分という立場になりきることです。

自分という立場が強くなるほど、自と他の分離も強くなります。
故に自と他は常に争う可能性のある、強い緊張状態になります。
そこには恐怖と不安が付きまとい、平和など見る影もありません。

スポーツなどで緊張しなければ本来の力が発揮できると言われます。
日常生活も同じで恐怖、不安などの緊張を消し去ることで人本来の力が発揮できます。

ただ余計なことをやめ、くつろいでいればいいんです。
故に悟りとは得るものではないんです。
以下は師匠がしてくれた永遠のリラックスに至るためのお話です。

【師匠のお話】
皆さんの空は厚い雲に覆われています。
雲の上は大空で雲の下は限定的空です。

この雲は皆さんの心の動きが生み出し続けているのです。
ではなぜ心が動くのか。
私には何か足りないとの思いが、恐れが外鏡に心を反応させているのです。

もしこの足りないとの思いが消え去れば心は不動となり、一切の雲は消え去ります。
この厚い雲が消え去れば、雲の上の空と下の空は一つの空となります。

何が必要か、それは外鏡に振り回されない心です。
それには何が必要でしょうか。
足りないとの恐れを消し去ることが必要なわけです。

いかなる教えや方法があると言って、全てはこの足りないを消し去る為の方法なのです。
昨日の六行の詩の『一切は既に成就している、努力の病を捨て去り』も一切成就しているで足りないをなくし、努力を捨て去れと言っている。

私の『皆さんは初めからそれだ』も同じですね。
神に全てをゆだねなさいも同じですね。
この世には得るものも失うものも無いも同じですね。
縁起も同じ、唯識も同じ、見ることが出来る物は客体であり主体ではないだから一切を私と思うなも同じです。

全てがこれ、私には何か足りないを取り去るためのものです。
一切を捨てる道も足りないを取り除きます。
完全な悟りとは完全なリラックスです。

何か足りないが、常に緊張を生み出し続けているのです。
もし私には何か足りないとの思いを捨てることが出来るならそれで良しです。

私が皆さんは初めから悟りだと言ってそれを信じ切れますか?
一切は既に成就していると聞いてそれを信じ切れますか?

それが信じ切れたら、その瞬間に空にかかる雲の一切はたちどころに消え失せて、皆さんの空は雲一つない青空になるのです。
限定された空がたちまちの内に際限ない大空と一体になり得るのです。

皆さんは練習せずに練習したと信じることができ、上手くなることが出来ますか?
出来ないのですね。

信じられないのはこれと同じなのです。
だから何かしらの努力が必要なのです。
だから時間がかかるのです。

足りないとの思いが消えるまでです。
般若心経も得るものも失うものもないとの教えなのです。
足りないが消え去るほど、緊張が取れて行きリラックスに向かって行くのです。