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凪良ゆう「滅びの前のシャングリラ」〜読書感想文〜

凪良ゆう、前回の「流浪の月」の感想文はコチラ☟

この作家の本を読んだのは今回が2回目。本のタイトルは、【滅びの前のシャングリラ】

【1か月後、小惑星が衝突し、地球は滅びる】

SF世界の話でもなんでもなく、現実に起こりそうなことから物語が展開されていき、ハラハラしながら本を読み終えた。

隕石の衝突は、高い確率で起こりえる。地球の近くを通り過ぎる小惑星の中で、かなりの数が地球に衝突する可能性があるといわれている。
とすると、巨大な隕石が地球に落下することがあれば、人類の絶滅が宇宙からもたらされることは、十分ありえることだろう。

そこで私も、本の世界に飛び込み、【1か月後に小惑星が衝突し、私は死ぬ】と自身の死の事を想ってみた。私の身に現実に起こるとするならば、今の私はどう感じるのだろう?

私たち人間は、夜寝るとき、明日がやってくることを当たり前のようにとらえており、今日と明日の事に想いを馳せたり、「明日はやってこないかも」と考えることは少ないだろう。もしかしたら、ある日の眠りが永遠の眠りになる可能性もあるかもしれないし、「明日が来る」確証なんて持ち合わせていない。

今日の終わりはどこだろう?明日の始まりはどこだろう?今日と明日の境目はどこだろう?過去・現在・未来とは?時間ってなに?目に見えない時間について想像してみると、深い沼にめり込んでいくようだった。

わたしは、【今ココ】に全力を傾けて生きていきたいと常々思っている。生きてきた時間=過去に想いを馳せることも、これから生きる時間=未来を想うことも、どちらもわたしの【今】であり、その場所に過去現在未来が存在すると思っている。

そんな【今ココ】に集中しきってみると、時々【私はいない】という感覚に襲われることがある。集中している瞬間私は確かにいるはずなのに、時間を想ったりすることで突如不確かな存在になる。これは一体どういうことだろう?

小説の中に、人はあがらえない運命を前に死ななければならない時、人々が死への理由を求める描写があった。〇〇だから死ぬ。〇〇だから死ななくてはいけない。
この〇〇には人それぞれの理由が組み込まれていくのだろう。死を経験することに何かしらの条件が付いてくるのだ。そして、その条件とは生きている間こんな悪い事をしたから、死ななければならなくなったと展開されていく。そこには、死=悪、の公式が成立していた。

死は条件付きではなく、だれしも平等にいつか必ずやってくるものだ。
自身の選択で産まれてきてないように、与えられた生を全うするのであれば、死も選択できるものではない。それでも人は死を前にしたとき、条件や意味を求めてしまう心は痛いほど分かる。なぜなら、少し前のわたしは「なぜ産まれたの?」と誕生した理由を求め続けていた時期があったからだ。

産まれたからにはいつか必ず死ぬ。生と死、在る事と無い事が同時に含まれている我々人間の今ここの存在。生きる意味を探すことももちろん一つだが、自分の死を想い、死の側から生の意味を問いかけ続けたとき、人は無条件の中に存在していることを知りえる。

この小説のラストに、【いつか訪れる最期の時まで命をうたう】と書かれていた。コレを自分の言葉で置き換えたい。


私は死ぬ。死ぬのにわざわざ産まれてきた。それに対しての【許し】を求め、生きている間無条件の愛にくるまれながら、幸せを感じ続けていくのだろう。死への足踏みの中、【今】しかない【今】を大切に、【今しかない】ということに向き合い続けていく。

私の【今】とは、私が自由に使える【時間】であって、それが目の前にパタパタと現れる【扉】の感覚を持っている。それらを開けたり閉めたり、飛び越えたりぶち壊したり、扉の先の世界を想像しながら、どの扉から中へ進んでいくのか私の【自由】だ。それが私の【命】であって、その瞬間に【命】をかけて生きていきたい。

改めて、この本を通して、久しぶりに生と死について考える機会を与えてもらったことに感謝したい。

私は、産まれた意味と生きていく意味を探し続けるのではなく、自身の【今】を積み重ね、自分が、存在の意味を創り上げていく!年単位の長い時間をかけてそう決めたことを再確認した。
これが、祖母の死を通じ、自身の死を想い、死の側から生の意味を問いかけ続け出したわたしの答えだ。


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