『読んでいない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール

 挑発的なタイトルで注意を惹く本書。また、誤解も招くタイトル。

 本書の主張を簡単にまとめれば、
「本を読んでいようが読んでいまいが、堂々と何かしら語っても良いんでない? というのも、読んだ本について語る(つまり批評する)って究極的には、自分自身から何かを創造することじゃね?」ということ。

 そもそも、普通に生活していて、「本を読んだとは何か? 読んでいないとは何か?」について、なかなか話題に上らない。本書ではそこを突いて、いくつかの諸段階に分けている。
 以下、目次から引用。

1 ぜんぜん読んだことのない本
2 ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
3 人から聞いたことがある本
4 読んだことはあるが忘れてしまった本

 ここが通常、議論されない。その理由はあとで述べる。
 以下に例を挙げる。

 自分はドストエフスキーの『罪と罰』を読破しているが、正直、ほとんど内容を忘れている。感想を聞かれたら「主人公一家の家族愛に何度も涙した」ことを真っ先に言うが、その家族愛がどのようなものだったかすら覚えていない。こんな状態では読んでない人と大差ないのではないか?(4 番目の「読んだことはあるが忘れてしまった本」パターン

 また『罪と罰』は有名だから、読んでなくても人や別の本経由でストーリーを詳しく知っている人がいる。その人のほうがスラスラ感想を言えるのではないか? さらに親切なことには、この本は漫画化すらされている。漫画だけを読んだ人は?(3番目の「人から聞いたことがある本」パターン

 中身を全く読んだことがなくて話を聞いたことがなくても、ドストエフスキーがトルストイと並ぶロシアの巨匠であり、『罪と罰』というタイトルとドストエフスキーの名前が一致するのは、教養深い人間なら当たり前だと知っている人の場合は? 理系なら有り得そうだ。(1番目の「ぜんぜん読んだことのない本」パターン)

 情景描写をすっ飛ばして読んでる人と、当時のロシアを想像力膨らませて読んでいる人の違いは?(2番目の「ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本」パターン)

 また、流し読みした人と熟読した人を一緒くたにすると「アンフェア」に感じる人がいるのでは? 正直、かなりいると思う。

 アンフェアに感じるのも、4つの未読の違いが議論されないのも、「書物史上主義」なるものが世に蔓延っているから。

 どういうことかと簡単にいえば、「本に書いてあることが絶対で、書いてある内容を間違ってはいけない」という強迫観念がわれわれに植え付けられている、ということ。そして、その観点からいえば、4つの読み方の違いについて触れるのは、危険な行為であること。「あなた、『罪と罰』読んだっていうけど、どのくらい深く読んだの?」と問うのは、「じゃあ、あなたは?」としっぺ返しを食らって、「えーと、えーと……」と自分の無知をさらけ出すことにもなる。
 だから、4つの未読の違いは議論されない。

 そして、そうした状況の中では、本を読むことで、あるいは、読まないことで、色々と空想巡らせたり、着想を得たり、自分を表現する手段にもなるということ、を忘れてしまっている。読書には、もう自由がない。

 以下、引用。詳しく知りたい人はお読みください。

 われわれは書物というものを、学校時代以来、触れてはならない[神聖な]ものとして思い描いており、書物に何か変更を加えるとすぐに罪悪感をいだくのである。
 教育が書物を脱神聖化するという教育本来の役割を十分果たさないので、学生たちは自分の本を書く権利が自分たちにあると思わないのである。あまりに多くの学生が、書物に払うべきとされる敬意と、書物は改変してはならないという禁止によって身動きをとれなくされ、本を丸暗記させられたり、本に「何が書いてあるか」を言わされることで、自分がもっている逃避の能力を失い、想像力がもっとも必要とされる場面で想像力に訴えることを自らに禁じている。

 よく「読んでから批判しろ」という意見を耳にするが、それは正しいとは思わない。

 水嶋ヒロの『KAGEROU』や山田悠介の『リアル鬼ごっこ』を批判するのに、読む必要があるだろうか? 世間で評判を聞く。それを元に批判する。そして大体、それは正しくて、読んでいても読んでいなくても大きく変わるものではないだろう。
 それにわざわざ批判するために、読んでいる時間なんてねーよ、という重大な問題がある(そう、なんと批判するために!であって、フェアに読むためにではない!)。

 それに、『KAGEROU』や『リアル鬼ごっこ』を読んでいるのか読んでいないのかよく分からない人々が、すごく面白い文章を自由に創造できてしまっている!という事実!(下にリンク貼ります)

水嶋ヒロの小説「KAGEROU」 Amazonのレビューまとめサイト
リアル鬼ごっこの原作の文章の酷さ

 今、自分がこうやって『読んでいない本について堂々と語る方法』について延々と書いているけれども、なるべく本の内容・主張に相違ないように努めて書いている。そう努めれば、自由がなくなる。
 もっと自由に想像を膨らませて書いても良いのでは?と思いながら、書いている。もっと理解していなければ、あるいは自分がもっと適当な性格ならば、もっとデタラメなことを勿体ぶって書けるのではないかと思いながら、書いている。間違っているのではないかと思いながら、書いている。
何か苦しくて罰を与えられているようだ……

 自分の好きな思想家にジョルジュ・バタイユがいる。この人の『文学と悪』という著書は、自分の思想を語るために、文学と文学者たちを利用している(ようにしか見えない)。文学者の性格や決断、作品の多様に読める部分を勝手に決めつけたりしてるし。

「本は読書の度に再創造される(p242)」のだし、再創造を逃れることはできない。自分が20歳の時にドストエフスキーを読んで噴出した感情や論点等は、35歳の今に読んでも絶対に噴出しない。当時とは違うものが噴出するだろう。

「本を読んでいようが読んでいまいが、堂々と何かしら語っても良いんでない? というのも、読んだ本について語る(つまり批評する)って究極的には、自分自身から何かを創造することじゃね?」
と、はじめにまとめたのを、著者の言葉を使ってカッコつけて言ってみる。

私たちは、受動的な「読者」「批評家」という奴隷状態を脱して、「自己のうちに独自のテクストを創出する力」を見出して「みずから作家になる」よう努めるべきである。

(分かりづらかっただろうし、どうして?とツッコミどころたくさんあったかと思います。ごめんなさい。是非、この本を読んでみてください、あっ、読まなくても良いと思うけど


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