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おもいでルーレット
またあの日の朝の風が吹く
連休明けの不安な朝
天気が良く
からりとした秋風が吹く日
僕は今日から小学校1年生だ。
なんて説明もなく知らずに登校したあの朝
校舎のペンキの匂いと
無機質な白い壁に囲まれた学校
黄色い帽子を被り母親に靴を脱がされながら、知らない中年女性に「おはよう」と言われ、僕は「おはよう」と返せなかった。
当日の違和感、異空間の迫力に圧倒されて「先生の声が頭に入らなかった。後ろめたさだけは、今でもはっきりと覚えている。
僕のすぐ後ろから、このときもこれからも優等生で、優等生になったT君が、ひとりで靴を脱ぎ、
しっかりと先生に「おはようございます」と挨拶を返していた。学校が楽しみでしょうがない。そんなオーラを、テキパキと下駄箱に靴を仕舞う手際さから、それを感じた。
内向的? 引っ込み思案? 僕の学校生活はイマイチだった。一年生の最初の授業。ひらがなをいくつか読めなかった人は数名しかいなくて、僕はその中の数名に該当した。
新しい場所とは不安の塊だった。
みんなと同じことができるのが”普通”で、
みんなにあわせられるのが”普通”の箱の中の世界。
”普通”って何?
”普通”から逸れた者は先生と呼ばれる”安定強制役(薬)人”にしばかれる。
それがどんなに辛いことか。
授業中にトイレ、と言えずお漏らしする子がいた。
僕はその子の気持ちがよくわかった。
管理下に置かれる恐怖。そんな箱の中で授業なんて聞ける訳ない。
野球の盗塁のように教師の隙を見て自分の殻に逃げこむ。
慣れとは恐ろしい。
そんな僕も水を得た魚のように学校生活を立ち回れるようになった。
姉の存在は大きかった。
水泳大会。
皆んながスイスイとゴールしていく中で、僕は泳ぎを最初から諦め、深水ギリギリようやく着く足で、次の競技を待たせながらゴールへ向かう。
僕は歩く事と、水を飲まない様に水面ギリギリで呼吸する事、に夢中になっていた。
プールサイドでそんな僕を応援する女の子がいた。
度々顔に水が被りボヤけて見えるが、その声は姉だ。
何を言ってるの?聞こえない
「頑張れ!泳げ!泳げる!泳げ!」
と言っている?
タガが外れた?
いや、吹っ切れた。とはこの時の様な事を言う。
残りの13Mを気がつくと僕は泳いでゴールしていた。
「泳げた」
ビリっケツの恥ずかしさより”泳げた”達成感の方がその時強く、嬉しかった。
はじめての購買係。
小学校2年生ぐらいになると上級生と一緒に購買係が順番で当たる
とうとう僕に順番が回ってきた。
恥ずかしさと自信の無さに僕は、買いに来た学生にお釣りさえ渡せなかった。
そんな時、姉が来た。
「消しゴムひとつと、HBの鉛筆ひとつ下さい」
わざと僕の前に来る。
僕が「えーっと‥」と鈍くやっていると、
「いい?難しく考えないの。消しゴムひとつがいくらで、鉛筆がいくら。先ずこれを足すの。
いくらになる?」
「そう。その数字を頭の中に入れて取っておくの。そしてお客さんの出すお金の額が幾らか見る。そしてそれを頭の数字を引くだけよ。
ねっ?簡単でしょ。」
丁寧に教えてくれた。
何日かそれをやると、自然に僕は一人前になった。
4年生になると僕の身体はメキメキと筋肉が付き男になった。
4年生になると部活に入部するが、僕の小学校には、男=野球部、女=ソフトボール部しかなく、強制的だった。
入部して間もない放課後。
何日目にして優等生のT君が初部活。(来たくなかったらしい)
キャッチボールからはじまる。
優等生のT君はただ、見ているだけの日が続いた。よく見るとグローブを持っていなかった。
次の日、僕は優等生のT君にグローブをあげた。
昨日家の倉庫を漁ったら姉のソフトボール用のグローブがあったからだ。
その日から僕は優等生T君とキャッチボールをするようになった。
毎日、部活で身体を動かすようになり、オイルをさし終えた機械のように僕の身体はスイスイと動くようになった。
5年生時は、学校代表の水泳大会に選ばれ、冬休みに設立する卓球大会では県大会まで行き、
6年生時は、秋の陸上駅伝の選手に選ばれた。
どれもメインの野球部以外での活動だ。
僕は夏休みも冬休みも忙しかった。
6年生の春
児童会長を決める選挙があった。
優等生のT君は4年生ぐらいから児童会長になるのが夢のひとつだっだ。ふたつ目の夢は選挙に出馬して当選すること。
T君以外の候補がいなくて皆んなつまらなそうな顔をした。
僕は勢いで手をあげた。
そして、僕は児童会長になってしまった。
勢いでなるものじゃないよな。とその時反省した。月曜の朝は誰よりも早く出校し体育館のバスケットゴールの鎖を引っ張り格納し、カーテンを開けて、ステージに演台をセッティングする。
そして皆が体育館に集まったら司会をする。
30周年式典の時は長い挨拶をレジメなしで言えるように野球の練習前に挨拶の練習を1ヶ月毎日続けた。
式典後、親は気が付かなかったが、地方新聞に僕の挨拶をしている横顔が記事に載っていた。
その切り抜きを後で校長先生が僕にくれた。小さい小さい僕の記事。
たくさんたくさん練習した。
でも誰かに感謝された気がして嬉しかった。
嫌々何とかこなして僕の児童会長は幕を閉じた。
「もうやるもんか」
そう決心していたが、卒業式の日
僕の最後の短い言葉が終わると保健室に呼ばれた。
いつも適当に掃除してよく怒られていた保健室。
6年生の秋にはちゃんと無言で掃除できるようになっていた。
その和歌山先生に
「そこ座りなさい」
誰もいない教室
柔らかい光が差しこむ昼あたり?
「(また怒られるのかよー卒業式の日に。勘弁)」
下を向いていた
「あのね。君がやり遂げた経験はね。これからずっと財産になるのよ。良い経験をした。絶対そう思うから。これからきっと君の”実”になるから。
下見ないで、胸張りなさい!」
自分の気持ちを見透かされたようだった。
嫌で
嫌で
たまらなかった。
なぜ自分ばかり。こんなの。といつも思っていた。
ここの保健室の掃除の時間だけが捌け口だった。
雑巾投げて遊んだり、机並べて跳び箱したり、叩きで格闘したり。
横目で見た、窓のサンは埃ひとつ付かずに艶めいていた。
僕が拭いたのだ。
そっか。
やってて良かったよな。
この部屋の掃除みたいなもんだな。
遊んで時間を潰しても部屋は綺麗にならない。
掃除ひとつ、やり遂げただけでこんなにも部屋は綺麗で気持ちが晴れる。
「やっててよかった」
その後
中学にあがり、誰かが僕を生徒会長に推薦してくれたけど、僕は断った。
小学校の時のT君のように憧れを持って”やりたい”と輝いている人がここにもいたからだ。
T君は早稲田大学に行き、東京の商社へ就職し僕らが住む田舎にはあまり帰ってこなくなった。
僕は今は地元を離れることもできずに小さな会社の現場監督をしている。
そうまるであの時、小さな小学校の児童会長のような気分で父親と同じぐらいの年齢の作業員もいる、小さな現場を監督している。
何年か前に小学校は閉校になった。
僕らのように廊下を駆け回る子供らはこの辺にはいなくなったそうだ。
思い出のあの保健室にはもう入れない。
沢山ボールを追いかけた校庭も今は雑草だらけだ。
あの時あの時間は確かにあった。
針が止まった南向きの時計は8時30分。
さぁ朝礼の時間。
きょつけ(きをつけ)!
これは僕の自慢話ではない。
気が小さい平仮名も知らず
皆より泳げず
友達もいなかった
ひとりの”醜いアヒルの子”のような、男の子の、
ただの成長記録である。