映画感想文「めぐりあう時間たち」〜もしかしたらミステリーかも
わからない
わからない
なにが言いたいのか
なにが起こっているのか
わからない...
と思いながらも観続けたのは、映像の美しさと俳優陣の演技の素晴らしさと見事な演出のせいだろうか。
状況を説明するようなセリフも無く、抑えた演技で、3つの時代の3人の女性たちの時間が次第に絡み合っていく。
伝わってくるのはただただ、何物かに縛り付けられている心の痛み。
その痛みとは、
自分の居場所が無い不安定さ
本当の自分でいられない危うさ
自分以外の誰かには埋めることのできない虚無感
だろうか。
3人の女性とは
20世紀モダニズム文学の主要な作家ヴァージニア・ウルフ
1950年代を生きるローラ
2001年を生きるクラリッサ
それぞれのストーリーが交互に綴られる中に、ヴァージニア・ウルフの小説「ダロウェイ夫人」のエピソードが時空を超えて散りばめられる。
その軸になるのが「時間」。
小説の中の「時」が映画の中でもあちこちに登場する。
私は「ダロウェイ夫人」を読んだことがなくあらすじを調べただけなので、読んでいればもっと深くこの映画を理解することができる気がする。
ヴァージニア・ウルフは自ら死を選ぶ。
ローラは死を選ぶ代わりに家族を捨てる。
クラリッサは自分を縛る相手の死に遭遇する。
不思議なことに、いつのまにか涙が溢れていた。
止まらなかった。
日にちが変わって思い出してもまた胸がつまる。
なぜ。
私は登場人物たちと同じような痛みをあいにく持ち合わせていない。
なのに涙したのはなぜか。
それは、私も同じ痛みをどこかに隠し持っているからなのかもしれない。
気がつかないふりをしているのか。
他の何かで誤魔化しているだけなのか。
この先ふとなにかのきっかけで、私も自分の抱える痛みに気づいてしまうことがあるとしたら。
そう思うと恐ろしくなる。
そして切なくなる。
終盤3人の女性たちの時間がみごとに重なる瞬間、鳥肌がたった。
これまでの散らばったエピソードも、重なった時間と共にひとつにまとまる。
まるで謎解きのように。
そこから繋がるローラの存在感は圧巻だ。
生きるために家族を捨てたことで幸せになったかどうかはわからない。
でもおそらく彼女は後悔はしていない。
正しいかどうかではなく、そうせざるを得なかったのだ。
彼女が生きることは、他の誰かの死と引き換えになった。
自分が死から逃れるためには、誰かに死を選ばせなくてはならないのだろうか。
もしそうなら人とはあまりにも悲しすぎる。
ローラは「ダロウェイ夫人」を読んだ後に家族を捨てるという行動に出る。
自らが死を選ばなくてはならなかったヴァージニアから、時空を超えてローラに託されたメッセージのようにすら思えてしまう。
自ら死を選ぶことと誰かの死と自分の生を引き換えにすることと、どちらが正しいということではないけれど。
わからない、と思いながらも心を掴まれ、ずっと余韻に浸りいつまでも反芻している。
こんな映画は初めてかもしれない。
時空を超えながら実存した作家とその作品まで絡ませて、生きることと死ぬことという重大な考察を織り込み、おまけに謎解きのような味わいを持つ。
これはもしかしたら、上質なミステリーなのかもしれないなあ。