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天才ディラック(24歳)の1926年論文を解読するのだ・その10


今回はその10です。ポールくん(当時24歳)は簡潔さを何より重んじる方のせいか、論文はどれも読解が易しくない。現在解読中のブツもそう。

ただゴールは彼のなかに明確にあるので、それをイメージできるようなら最後まで読み解けます。

ディラックくん、ひとつ確認したいことがあるんだが…

「なんだねワトソンくん」

気体分子のひとつひとつに波動関数がひとつづつ対応しているという理解でいいのだろうか?

「それは否だ。ひとつの波動関数は特定のエネルギー状態を示している。そこには気体分子がひとつ対応する場合もあれば、複数の気体分子が対応する場合もある。実質的にはひとつの波動関数に複数、いや数えきれないほどたくさんの気体分子が対応している」

うーん…もうひとつ確認したいことがあるんだホーム…ではなくてディラックくん。

「なにかな?」

固有関数というのは、波動関数とどう違うんだろう?

「・・・今の問いには、少しばかり腰が抜けた状態になっているよぼくは。演算子 $${\hat{O}}$$ に対して固有関数 $${\psi_n}$$​ と固有値 $${λ_n}$$​ の関係は $${\hat{O}\psi_n=λ_n\psi_n}$$ となるよね。思い出してくれたかな」

うむ。波動関数は?

「今ぼくらが論じているものに限っていえば、シュレディンガー方程式に出てくる $${\psi_n}$$ のことだよ。これの二乗が電子の存在確率になるわけだが、そのことがはっきりするのは実はもう数か月後のことなので、1926年8月時点のぼくがそう口にしてしまうとタイムパラドクスが生ずるので言わないでおく」

あはは。固有関数については前年(1925年)にハイゼンベルク一派が量子力学に持ち込んでみせたのだったね。波動関数は今年(1926年)になってシュレディンガーが量子力学に使い出したものだ。この両者に、あなたは橋を架けるべく目下奮闘中なわけだから…


「論文第三節で、電子の対称固有関数は…」

$${∑_{a_1...a_r}ψ_{n_1}(α_1)ψ_{n_2}(α_2)…ψ_{n_r}(α_r)}$$

「反対称固有関数は行列式の形で…」

$${\begin{vmatrix} {ψ_{n1}(1)} & {ψ_{n1}(2)}  …  {ψ_{n1}(r)} \\ {ψ_{n1}(1)} & {ψ_{n2}(2)}  …  {ψ_{n2}(r)} \\ {…}&{…}\\{ψ_{nr}(1)} & {ψ_{nr}(2)}  …  {ψ_{nr}(r)} \end{vmatrix}}$$

「となると算出した」

覚えているよ。ここだね。

いうまでもなく下のは行列式です。行列ではなく


「アインシュタインは1924年論文のなかで、気体分子は反対称固有関数と考えるべきだと指摘している」

ええと、光量子は対称固有関数で、電子は反対称固有関数だとしたら、気体分子は後者寄りということ、だよね?

「後者寄りだ。反対称固有関数として考えると、各波に関連する分子は0または1個となる」

電子がそうだったね。

「そう。原子内の電子についてもそうなのだから、気体分子についてもきっとそうだろうと想像するのが自然だ」

どうやったらそれを示せるのだろう?

「エントロピーに着目することだ。波動関数のエネルギー増加とともに、エントロピーはどうなっていくのかを、算出してみよう。幸いそのための複数の公式が、ボルツマンらのおかげではっきりしている」


$${W = \frac{N_s! , (A_s - N_s)!}{A_s!}}$$

$${S = k \log W}$$


二つ目はエントロピーの公式だね。一つ目は、前に見たことがあるが、なんだったか。

「$${A_s}$$ は状態 s のときの波の数。$${E_S}$$ は状態 s のときのエネルギー。そしてそこに $${N_s}$$ 個の分子がある。以上の総状態になっている確率を $${W}$$ と名付けると、そういう数式だ」

アインシュタインも無名時代に論文でこの式を使っていた気がする。

「使っていたよ。それについては後の機会に改めて検証するとして、今は話を先に進めていく」


$${S=klogW=k[As​(logAs​−1)−Ns​(logNs​−1)−(As​−Ns​)(log(As​−Ns​)−1)]}$$


「上の式すなわちエントロピー $${S}$$ が最大になるのは、以下のときだ」

$${\begin{aligned}0=\delta S=K\Sigma {s}{ -\log N{s}+\ \log \left( As-Ns\right) } \delta Ns\ =K\Sigma {s}\log \left( As/N{s}-1\right) \ \cdot \delta N_{s2}\end{aligned}}$$

「これと、アインシュタイン=ボース理論における公式…」

$${N_{s}=\dfrac{As}{e^{a+Es/kT}-1}}$$

「…をうまく絡ませると、最終的に以下の式が導出できるのだ」


$${PV=NkT}$$


理想気体の状態方程式じゃないかホーム…ではなくてディラックくん!

「さよう。対称固有関数として計算すると、こんな風にはいかない。反対称固有関数として計算するならば、よく知られた上の方程式が導出できるうえに、絶対零度に近づくにつれて特異熱もゼロに近づいていくことが示せる」

特異熱?

「物質の温度を1度上昇させるために必要な熱量のことだよ。これは温度変化や物質によって変わってくるのだが、反対称固有関数として計算すると、特異熱は絶対零度において零になる。自然だ、実に自然だ」



ポール・ディラックくんは実際は緘黙症で、一時間に一単語しか口にしないとまで噂されるほど物静かな人物でした。論文を読んでいると、シャーロック・ホームズめいた才気と、無口の極みな人柄のふたつが、簡素さを重んじる論述スタイルから感じ取れます。

しかしそれでは論文解読には不便なので、名優ジェレミー・ブレットが元気はつらつとポールくんを演じてみせたら(そして露口茂の吹き替えだったら)こうなるのかなーと想像を広げながら、かの天才の思考を言語化、音声化してみました。

次回よりいよいよ最終節の解説にかかるよワトソンくん!


追記:その後思うところがあって最終節に進む前にここまでの総括をすべきだと思い、次回ぶんでそうしてみました。どうも私の創造したポール=シャーロック=ジェレミー=露口茂=ディラックでは語り切れていないものがあるように感じたので、私自身が地の文で語っています ⇩

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