【意訳】フェリックス・ゴンザレス・トレスの“オープン・ワーク”(開かれた作品)
The Open Works of Felix Gonzalez-Torres
source: https://hyperallergic.com/302504/the-open-works-of-felix-gonzalez-torres/
※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
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ここはロンドン。積まれた紙、大量のキャンディ、電球が付いた電線、広告板、ビーズカーテン。フェリックス・ゴンザレス・トレスの作品カタログに載っているはそれだけだ。
1986年から1995年の10年に満たない期間にトレスが残した作品は公式には300点程度だが、それでも彼の実績と芸術的実践の影響力はとてつもなく大きい。ミニマリズムの影響、関係性を重視した要素、AIDS問題への多大なる貢献など、彼の作品は何年にも渡り、様々な角度で批評家に論じられてきた。
更にトレスは自分の作品だけにとどまらない作品制作理論の議論を投げ掛けており、これらは1990年代のアートを大まかに理解できる内容となっている。彼の作品は政治性と感情的な要素が混ざり合っているのが特徴で、これみよがしな主張や決まりきった形式ではなく、間接的で寡黙なとても詩的なスタイルで制作されている。
ゴンザレス・トレスの作品は展覧会の度に重要な問題を巻き起こす。 キュレーターが決定権を持ち、とてつもなく繊細な規定に従って展示を構成する必要があるからだ。彼らはトレス作品の特異性に応じるかたちで、展示意図をフレーミングしなくてはならない。
この春、史上最大規模のゴンザレス・トレス展が、NYのアンドレア・ローゼン・ギャラリー、ロンドンのハウザー&ワース、ミランのマッシモ・デ・カルロの3箇所で開催された。この展示はジュリー・オルトとロニ・ホーンによってキュレーションされており、展示場所に応じて異なる形式の作品を取り上げている。アンドレア・ローゼンでは彼のコンセプトが色濃く反映されたポートレイトのシリーズ、デ・カルロではビーズカーテンや鏡の作品、ハウザー&ワースの展示ではジグゾーパズル作品の全シリーズに加え、2つの鏡の作品と象徴的な電球の作品ひとつが展示された。これらは全て1991年に発表されたものだ。
フェリックス・ゴンザレス-トレスの “オープン・ワーク”
オルトとホーンは2人とも生前のゴンザレス・トレスと仲が良かった。オルトはアートコレクティブのグループ、“マテリアル”の一員としてトレスと活動し、ホーンはキューバ人アーティストであるトレスとお互いに影響を与え合いながら制作していた。
オルトとホーンの本展のキュレーションに対する貢献と友人であるトレスの作品の誠実な扱いは、気づかない方がおかしいほど徹底している。
“フェリックスの作品は人生のように、偶然によって自ら変化していく可能性を秘めている。” 2006年に発行されたオルト編集のトレスに関する本の中でアンドレア・ローゼンはそう書いている。
確かにゴンザレス・トレスの作品は様々な解釈ができる。小説家で記号学者のウンベルト・エーコを引用するならば、アート作品の持つ意味が制作者から開放された、観客によって完成される“オープン・ワーク”の完璧な一例としてトレス作品を捉えてもよいだろう。
現代文学における大きなテーマを予見したこのアイデアをエーコが開拓したのは1962年の同名の著書の中である。彼は作品の持つ意味の複数性と拡散性から、読み手の役割の重要性まで論じている。
つまりエーコの“オープンワーク”において、いわゆる完成が読み手によってのみ可能となるのは、作者が閉じた結論や明確な方向性を提示していないからである。エーコが例に挙げるのは、ベルトルト・ブレヒトの戯曲、ジェームズ・ジョイスの小説、カールハインツ・シュトックハウゼンやアントン・ヴェーベルンの作曲である。これらの作品は全て、構成上の不確実性がある。
ゴンザレス・トレスが頻繁に採用する基礎戦略は、一面的に読解されるのを回避しつつ、作品と大衆が相互作用を生み出す余地を残そうとすることだが、ここに“オープンネス(開放性)”の概念を加えてもいいだろう。
こういった彼の実践における本質的な方向性が、トレスの存命中は作品に様々な相互作用を生み出していたが、彼の死後にはキュレーションにおける終わりなき難問を生み出すことにもなった。
前衛的な実験音楽に関するテキストでエーコは、“その作品は演奏する個々のパフォーマーに対し、相当な自律性を求める”と指摘している。
パフォーマーをキュレーターに、演奏を展示に置き換えれば、この指摘はゴンザレス・トレスの展示理念と完全に一致する。それ故に、トレス作品のキュレーション方法に関する議論は現在進行形で続いているのだ。
今回のロンドンの展示において、オルトとホーンは包括的なアプローチを取った。彼が1991年に制作した全てのパズル作品をまとめて展示したのだ。
これは間違いなく珍しい展示方針である。キュレーター2人はその意図を明らかにしてはいないが、1991年はトレスの人生において象徴的な年である。
その1月に、彼のパートナーであるロス・レイコックがAIDSの合併症で亡くなっているのだ。
ゴンザレス・トレス作品における典型に漏れず、このパズル作品は流動性と特定性の特殊なコンビネーションを用いて、公 / 私の曖昧な境界の上で永久に漂っている。
トレスは新聞の切り抜き、写真、ラブレターの一部、手書きの手紙といったイメージを使ってジグゾーパズルを制作しているが、テーブルゲームの形式に偽装したこれらの写真の断片は、脆弱な記憶と日々のことばを囁きかけてくる。この作品を観ていると、“葛藤”、“不安”、“愛”、“人生”といった、
使われていないはずの言葉が文章の中から浮かび上がってくる。
蝶を捕まえた子供が、逃がしたくないと思いすぎて結局は蝶を握り潰してしまうように、我々は自分の望む形で記憶を留めておけない。このパズルは鮮やかな過去を振り返る懐古主義的な姿勢を見せている。記憶のとてつもない脆弱性と、しっかり覚えていることですらゆっくりと忘却してしまうことの恐怖を、物質的に表現しているのだ。トレスは記憶が薄れていくのを遅らせるか如く、各パズル作品を透明なビニール袋で包んでピースをなくさないように保護しており、まるで運命に抗っているかのようだ。
時間は独裁的で残酷だ。病気や加齢によってゆっくりと身体を消耗させ、かつては鮮やかだった人や出来事の記憶でさえも、静かに霞ませてゆく。
だが横暴であると同時に、時間はとてつもなく寛大だ。愛は時間に打ち克つ、とゴンザレス・トレスは示唆しているが、これ以上の慰めが他にあるだろうか。
Felix Gonzalez-Torres continues at Andrea Rosen Gallery (525 West 24th Street, Chelsea, New York) through June 18, at Massimo De Carlo (Via Giovanni Ventura 5, Milan, Italy) through July 20, and at Hauser & Wirth (23 Savile Row, London, UK) through July 30.MeasureMeasure
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