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【意訳】マーティン・クリード:これになんの意味があるの?

※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。もし間違いを発見された場合は、お手数ですが 山田はじめ のTwitterアカウントへご指摘を頂けると助かります。

source: http://www.theguardian.com/artanddesign/2014/feb/02/martin-creed-whats-the-point-hayward-review?CMP=share_btn_tw

Martin Creed: What's the point of it? – review

テムズのサウスバンクにあるHayward Gallery のテラスから、あなたは朝顔で満開のロンドンを見渡すことができるだろう。そこは男性器のようなクレーンが常に向いている場所でもある。つまりは年中作業中なのだ。(ウェールズ公もこの事についてはずっと嘆いてるのだが、、)

ガラスと鉄でつくられたこの理解困難な幾何学状の建物は、5年以上前から一階層ごとに増築され続けており、ロンドンにおけるトップレベルの迷惑事になっている。
こんなものを無謀にも必死に建て続けている様子は、マーケットメイカー達の止められない欲求が目の前に具現化されていると言っても良いのかも知れない。

今週からはその前景をマーティン・クリードの2つの作品が占領する。一つ目は、高さ10×幅15フィートのゴツいレンガの壁である。おそらくWickes and Jewsonから提供されたであろう様々な色の家庭用レンガで、ストライプ模様を作っている。

2つ目は18禁の作品で、レンガ壁と同サイズのスクリーンに萎えた男性器が映されており、それが勃ったり元に戻ったりする、という作品である。なお、その男性器がアーティストのモノかモデルのモノかは不明である。

ギャラリー全体を使ったクリードの個展は、"What's the point of it? (これになんの意味があるの?)と" 題されている。
この問いの答えは、作品ごとに極めて明確に示されている場合もあれば、最小限にしか示されてない場合もある。まるで水平線上から顔を出したり引っ込めたりしているかの様だ。
ストライプ模様の壁は、あたりまえだが他の作品と同じく数週間後の撤去作業時に崩されてしまう。
そんな事を言うと、この展示もあっけない三日天下の様だと感じてしまうかも知れない。だが破片が塵になる様に、オクソタワーもいつか崩壊する。ピクルスにだって賞味期限切れはあるのだ。全ての形あるものは風化するのである。

Work No 79: some Blu-Tack on a wall. Photograph: © the artist, Image courtesy the artist and Hauser & Wirth

クリードの全ての制作過程には、なんだかんだで感情の様なものが宿っている。彼の作品はシンプルかつ数値的であり、コーヒーショップのように自分の人生をスプーンで量り売りしているかのようだ。
壁に押し付けられたブルタックの作品や目を瞑ったまま描かれた絵画などは誰でも一度は思い付くだろうし、
おっ、これは行けるのでは?とアーティストを少し興奮させるアイデアだと思うが、殆どの場合はうっすらと覚えているだけで手を付けないままになっているだろう。きっとそんな風に、インスピレーションというのはいつも手の届く範囲にあるのかもしれない。

かつて、作家のニコルソン・ベイカーはこう言った。"最もセンスのある創造力というのは、衣装タンスの寸法や、手押し車の機構の中に込められているのだ。"それに比べると、クリードは全体的にもっとしょうもない事をやる傾向にある。縮んだ脳ミソの様に丸められたA4紙をケースの中に並べているスタッフ達は、まるでコントをやっているかの様だ。
また、彼等は 1000枚に及ぶ無作為なドローイングを額装して展示している。 ポスターカラーを塗ったブロッコリーをスタンプしただけの作品だ。
他にもドアを開けたり閉めたりする作品、ギャラリーの照明を点けたり消したりする作品(クリードはこの作品でターナー賞を勝ち取った)などがある。

これらの作品は部外者お断りのミニマリズムと同じく、計算されたシンプルさによって、単なるシンプル志向との間に紙一重の境界線を引いている。今までも何人かのアーティストは砂の中で藻掻くかのように、クリードの様な大胆な作品を作ろうと試みてきたのだ。

ダンボールを積んで作ったピラミッド。並べられた様々な球技のボール。バラバラのバレエのステップ。
残念な感じの半即興の歌(この個展に合わせてアルバムも制作している)。絆創膏を貼り合わせて作った立方体。
彼のド下手な肖像画すら、専門家の様にじっくりと、または無邪気に楽しんで観てしまうなら、あなたは既に彼のファンになってしまっているのかも知れない。

しかし、これらの作品を完全に素晴らしいと言い切るには、作品に要求する知的レベルをかなり下げ、淀みない純真さを持ち、仏教でいう悟りを開いてないと不可能な気がしてしまう。
この回顧展で彼は、アートとは人生の様に本質的にコントロールできないものではないか?とぼんやり問いかけてくる。アートに対する我々の心情は、男性器が勃ったり萎えたりするのと同じく生理的に制御不能なのだ。

もしもそんな感覚を経験した事が無いというならば、クリードの映像作品はあなたに強烈なインパクトを与えるだろう。ギャラリーの床に女性が脱糞して立ち去っていくビデオと、同じ様な真っ白な部屋で男性が吐いている映像だ。

クリードは自分の信条をこのように語っている。
"これがアートなのか?これにだけ特別な価値を与えても良いのか?と、評価や区別が難しいものを見つけるのだ。私は自分で意思決定することなく、試行錯誤の中で生まれたものを作品として選んでいるだけだ。"

言い換えれば、彼は良くも悪くも思い付いたもの全てに作品番号を与えてコレクションに追加しているのだ。
何が確立された素晴らしいコンセプトで、何が中途半端なアイデアなのか。価値判断を行わない事のたった一つの利点は、つまるところコレクターを誘惑する際に他の作品よりも目立つという事だろう。

スコッツマンの階段 (Work No. 1059)と名付られた色とりどりの大理石でできた美しい階段は、エディンバラの新旧の街を繋いでいる作品だ。他のクリードのストライプ状の作品──レンガの壁やピラミッドの様なペインティングを連想する事だろう。

国民の鐘を3分間鳴らす作品 (Work No. 1197) は、オリンピック開催前のロンドンの盛り上がったムードを見事に捉えた作品だった。
部屋の体積のちょうど半分を風船で埋めてしまう作品(Work No 268)は、彼の名声を最も高めた作品だ。
今回再制作されたバージョンは部屋の天井が高いため、白い風船が大人の身長を超えるほど高い位置まで敷き詰められており、掻き分けて進んでいけば童心に返るか閉所恐怖症の発作が起きる事だろう。

Work No 200, in which exactly half the air in the room is contained in balloons: ‘You experience claustrophobia and childlike lightness in about equal measure.’ Photograph: Courtesy Il Giardino dei Lauri © the artist

クリードの映像作品やパフォーマンスが空間で起きる身体現象に注目してるのは、ブルース・ナウマンが1960年代に行った、自分の睾丸を黒く塗ってお手玉する作品などに着想を得ているのではないだろうか。
同様に、黄色のネオンサインで"Don't Worry "と書いてある作品はナウマンの直接的な引用だ。ブルース・ナウマンはたいてい疎外感を訴える囁きを作品化していたが、クリードのネオン作品は、より曖昧で気まぐれな言葉を選ぶ傾向がある。

"what's the point of it?" ──この修辞的な問いかけに応じても、全ては的外れな答えになってしまうだろう。白紙に小さく"fuck off"とタイピンクされているだけの作品の意味を理解しようと試みるのは、もはやジョークにしか思えないではないか。
しかし現代はむしろ、ギャラリーの外で無意味なものを探す事の方が難しいではないか、という事実にギャラリーの"中の人たち"の関心が集中したため、デュシャンの時代以降、作品の価値はジョークのクオリティに依存する様になったのだ。

最初の部屋には"MOTHERS"というネオン文字を乗せた巨大な梁が回転しており、部屋の全てのものを6フィート6インチ以下にかがませている。同時に、部屋にはそれぞれ違うテンポの数十個のメトロノームがしつこく鳴り続けているので、はじめの内はちょっと笑ってしまう事だろう。
しかしその部屋を抜けてバルーンに埋もれている頃には、どの様な精神状態になっているか保証できない。

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