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【意訳】アナ・メンディエタの死:カール・アンドレの妻に何が起こったのか

What Happened to Ana Mendieta

She wanted to be known for her art. But first she became famous for her death.
podcasts Nov. 14, 2022
By Max Pearl, a bilingual journalist covering art, literature and politics
   
クリップソース: Ana Mendieta, Carl Andre, and the Death of an Artist Podcast

※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
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 Ana Mendieta, Untitled, Silueta Series, Mexico, 1976. Photo: © 2022 The Estate of Ana Mendieta Collection, LLC. Courtesy Galerie Lelong & Co. / Licensed by Artists Rights Society (ARS), New York   

事件が起きたあと、カール・アンドレは911に電話をした。“私の妻はアーティストで、私もアーティストで、ある事実について口論を、えぇ、私の方が彼女より世に知られていると、、”
彼は泣きながら続けた。“彼女がベッドルームに行ったので、私もその後を追ったら、彼女は窓から飛び降りたんです。”

それは1985年9月8日の早朝だった。警察がカール・アンドレとアナ・メンディエタの住居であるGreenwich Villageの34階に到着したとき、アンドレは彼らにこう語った。“彼女は飛び降りたんだと思う、きっと。”
だが数時間後には警察署で、彼女は飛び降りたか落ちたのだ、と以下のように証言している:2人は朝3時まで映画を観ていて、彼女は先にベッドへ向かった。彼が30分から1時間後に行くと彼女はおらず、ベッドルームのスライド式の窓が開いていたのだ、と。
数十年後のNew Yorker誌でのインタビューで、アンドレはその夜をこう思い返している:女性が“No, no, no!”と叫ぶ声で半分目覚めたアンドレは、その声が自分の妻、メンディエタだと予感したそうだ──彼女の身長は4.10フィート(約147cm)しかなかったが、高い位置にある窓によじ登り、バランスを崩して落下して亡くなったのだ、と。
2年半ほどの調査の後、アンドレはメンディエタの殺人容疑で起訴されたが、1988年の初頭に彼は無罪になった。その裁判の戦線はNYのアートワールドにも及んだが、そこで語られるメンディエタの死を巡る物語は、2人の不運な結婚を強調する傾向にあった。

メンディエタは36歳のカリスマ的なキューバ人亡命者だった。当時は夫ほど有名ではなかったが、今ではその泥、花、羽根、火、血などを使った本能的かつサイトスペシフィックなパフォーマンスの記録を通じて知られている。彼女より13歳年上のアンドレはニューイングランドのマルクス主義者で、前衛主義芸術の神だった。レンガやタイルといった工業的素材を使って制作を始めた最初のミニマリスト彫刻家の1人であり、売れっ子作家の中では珍しく闘争的で、労働組合の Art Workers’ Coalihtion のリーダーでもあった。
2人は酒が好きだった。アンドレの擁護者は彼に妻を殺すことなどできなかったと言う一方で、メンディエタ側は彼女は飛び降りることができなかったと言った。彼女は高所恐怖症であっただけでなく、アートワールドでの名声に飢えており、それがもう少しで手に入ると感じていたところだったからだ。メンディエタの追悼式の出席者の1人は、このイベントが地獄の結婚式の様だったと語っている──出席者は家族ごとに別れて目を合わせなかった。  

Carl Andre in court, 1988.       Photo: Monica Almeida/NY Daily News Archive via Getty Images

彼女が殺されたかどうかに関わらず、メンディエタは犠牲者だと考える人々もいる。アンドレはこの件で無罪にはなったが、少なくとも一部の人々からは腫れ物扱いされるようになった。2017年にアンドレ作品の回顧展がLACMAに巡回したとき、抗議者たちはこう書かれたポストカードを持って集まった:“カール・アンドレは美術館にいる: アナ・メンディエタはどこ?”

当時の現代美術館のチーフキュレーターは、美術史家のヘレン・モールズワースだった。現在彼女はメンディエタとアンドレの物語を語るポッドキャスト番組: Death of an Artist のホストになっている。
この番組は300 Mercer Street #34Eでその夜に何が起こったのか、結論を導き出す訳ではない。その代わりに、この事件の要因になったであろう事柄に重点を置き、リスナーにパズルのピースを提供している。
このポッドキャストで最も画期的な点は、メンディエタの死後に起きた出来事の分析である:弁護士・アーティスト・ジャーナリスト・批評家・活動家達が始めた思想戦は、血の通った人間である彼女を今日の象徴的存在へと変えた。
この衝突をモールズワース以上に俯瞰できていた人物はいないだろう。彼女は現状維持を貫こうとする側に思わていたが、アンドレが抗議を受けている最中、どんな気持ちで美術館にいたのかを聞いたとき、彼女は一瞬口ごもり、そしてこう言った。“もっと勇気があれば良かった。”
その当時キュレーターであった彼女は、抗議者に対して公的な返答はしなかったが、その翌年に美術館を解雇されている。(彼女は退職時に秘密保持契約書にサインしたが、本美術館の関係者が Artnet に語った内容によると、モールズワースと数人の同僚は閉じられたドアの向こうで、この展示に意義を申し立てていた。LAMOCAの理事でもあるアーティストのキャサリン・オピーによると、美術館長は『美術館の運営を妨げている』ために彼女を解雇したと語ったそうだが、オピーはこの決断に納得していない。)

このポッドキャストのホスト役を受けることで、モールズワースは議論の渦中に足を踏み入れた。“すでに充分な時が過ぎましたし、私も皆さんに話してもらえるだけの信用は充分に得たと思っていましたが、それは間違いでした。”
モールズワースによると、メンディエタの家族は彼女の死に焦点を当てたプロジェクトにはノーコメントを貫いている。(メンディエタの姪、ラクエル・セシリア・メンディエタはVultureにこう語っている:“作品自体が語るものを感じ取るべきです。それが彼女とその作品に関する議論に関与した時の私の指針です。”)

アンドレは、この事件についてなるべく語らないというアプローチをとっている。モルズワースとプロデューサーのマリア・ルイス・タッカーは様々な方法でアンドレに連絡を取ろうとした。彼らはアンドレが住むアパートメントのロビーで待ち、ドアマンに伝言を渡すことまでしたが、連絡はつかなかった。(私もアンドレにコメントを求めたが、返信はなかった。)アンドレと親しい、彼の作品を長年扱ってきたディーラーのポーラ・クーパーにも問い合わせたが、彼女も同様に話そうとしなかった。

(メンディエタの親友ナタリア・デルガドを含む)本ポッドキャストに登場する人々のほとんどは、アンドレがメンディエタを殺害したと考えている。
この事件をNY誌のために追った記者、ジョイス・ワドラーは私にこう語った:“ドラマのクライム・ストーリーなら、被害者の家族は熱心に語ろうとするでしょうし、被告人の家族はあなたをベランダから突き落とそうとするでしょうけどね。”
1970年代から80年代のNYのアートワールドを再構築するため、モールズワースとタッカーは可能な限り新しいインタビュー記録を扱っている。そこに加えてキューバ人アーティストのタニア・ブルグラがメンディエタの手紙を朗読している。

犯罪の被告人を守るための法律に基づき、本裁判のテープは1988年に非公開となった。だが幸運なことに、この裁判に関する本を1990年に出版し、2010年に亡くなったジャーナリスト:ロバート・カッツのおかげで、そのテープのコピーに今もアクセスすることができる。彼はメモと音声のアーカイブをタスカニーにある図書館に残していたのだ。

An excerpt from Joyce Wadler’s 1985 New York story about Carl Andre’s trial, including a photo of Mendieta taken in Manhattan when she was a rising star in the art world. Photo: Cynthia Larson

アンドレの支援者たちは裁判の開始前から、ナイトクラブやカクテルパーティでメンディエタに関するゴシップを流し始めていた。ワドラーは1985年のNY誌の記事の中で、アート・ワールドで働く匿名女性の話として、メンディエタを狂ったキューバ人だと思わせるため、業界人たちが秘密裏に“ささやき活動”を行っていた件に触れている。
モールズワースのポッドキャストに出演したVillage Voice誌の元批評家: B.ルビー・リッチはメンディエタの友人であると同時に、アンドレにとっては最も手厳しい批判者でもある。
彼女は当時のメンディエタがどれほど型にはめられていたかについてこう語っている。“それは被害者に対する非難であるだけでなく、捻じ曲げられたものでした。完全に人種差別的だったのです。感情的なラテン系女性が酔っ払い、無作法に振る舞い、最終的に窓から飛び降りたのだ、という考えが構築されていたのです。”
カッツの本には、アンドレの友人とされる人物の発言が匿名で載っている:アンドレを非難する者たちは、男性への報復の怒りで盲目になった“フェミニストの陰謀団体”である、と。
なお、アンドレのために保釈金を支払ったのは、フランク・ステラなどのアーティストたちだ。

このポッドキャストにおいて最もショッキングな話のひとつが、アンドレ側の弁護士や美術批評家が、メンディエタ作品を利用して彼女に不利な証言をしたことだ。
彼女は、自身で命名したボディ・アースアートのパイオニアだった。中でも有名なのがシルエタ(シルエット)シリーズである:その記録写真や映像において、彼女は自然の中で等身大の天使のかたちを掘ったり、彫刻したり、焼いたりしている。
1976年の無題の写真作品で、彼女はメキシコの砂浜の海岸線にシルエットを彫り込んでいる。それはまるでメソポタミアの女神などの古代のシンボルだ。シルエットの中は鮮やかな赤い絵具で満たされ、波に流されるままにされている。また1973年の別の作品で彼女は、血の滴るシーツに包まれて屋上に横たわり、胸に牛の心臓を乗せている。メンディエタ自身の言葉によれば、これらの作品は我々の身体と自然界の隠された繋がりを可視化しようとしたものだ。
“これらは私と地球との繋がりを改めて主張するための行為であり、生きることへの渇望を表明しているのです。”

Installation works by Mendieta in Rome, 1984.       Photo: © 2022 The Estate of Ana Mendieta Collection, LLC. Courtesy Galerie Lelong & Co. / Licensed by Artists Rights Society (ARS), New York

だがこの裁判でアンドレ側の弁護士ジャック・ホッフィンガーは、一流批評家やキュレーターと共にこう主張した──メンディエタの美的実践は、彼女の儀式的な死への願望を表しているのだ、と。
ホッフィンガーの尋問のいくつかは、メンディエタのアフロ・キューバ人的サンテリア(キューバの民間信仰)に対する関心に焦点を当てていた。メンディエタはシルエタのひとつにイェマヤという神の名前を付けていたが、ホッフィンガーは彼女の友人のひとりに、その重要性を説明するように依頼した。
友人が、イェマヤは空を飛ぶことで知られていると言うと、ホッフィンガーはイェマヤはいつ飛んだのかと聞いた。9月7日だと証言者は言った──だが、それはメンディエタの死の前日である。しかもイェマヤは水の精霊であり女性の守護者なので、飛行や飛翔とは何の関係もない。
この証言は完全な間違いでも構わなかったのだろう、とモールズワースは語る。それでもメンディエタがダークサイドを持っていると示唆するのには充分だったからだ。“その美術批評家は、まるでチンケな心理学者のようでした。”

メンディエタの作品は彼女の悲劇的な最期と共に言及されることが多いが、彼女の作品自体もまた鑑賞者に語りかけ続けている。Chicago Institute of Artthe Hirshhorn in D.Cでの展示など、ここ20年間で多くの再注目を受けている。
またメンディエタは、2018年にブルックリン・ミュージアムで開催されたブロックバスター展、Radical Women: Latin American Art, 1960–1985 における目玉作家の一人にもなった。
彼女が死去する数年前、NYのアートシーンは2つのギャングに支配されていた:ミニマリストとポップアーティストである。彼女の夫を含むミニマリストたちは形而上学的な形式の探究を行ない、アンディ・ウォーホルなどのポップアーティストたちは日用品へのフェチズムという冷笑的なアイデアを扱っていた。
その一方でメンディエタは、物事の相互関係性、空間の調和、女性的経験の具現化に関するアートを制作していた。彼女はスピリチュアルな先祖伝来の知恵を、不真面目な印象を与えることなくハイアートの主知主義の中で実践可能だと提示していた。また彼女の作品は、西洋の合理主義的な気質に疎外感を感じている人々に今も共感を与え続けている。
モールズワースは語る。“母なる自然、母なる大地を信じているのなら、自然が豊かで美しい命を我々に恵んでいるという感覚を持っているなら、宗教や宗派に関係なく、メンディエタ作品は我々に何らかの答えを与えてくれます。”

このことを指摘したのはモールズワースが最初ではない。このポッドキャストは他の美術史家達による長年の研究にインスピレーションを受けている。その参照元にはジェネビーブ・イアサント著、2019年のRadical Virtuosity: Ana Mendieta and the Black Atlantic も含まれている。イアサントはメンディエタ作品を、風景を植民地化する男性達が支配していたランドアートのムーブメントにおいて、待望の介入行為であったと表現している。“彼女はロバート・スミッソンのスパイラル・ジェッティのような記念碑的作品の荘厳さと崇高さを、小さく親密なスケール感で生み出すことができました。”

イアサントはその本の執筆中、メンディエタ作品を理解するために作品を再製作する必要性を感じた。そこでイアサントは助手と共にNYからメキシコシティ経由でオアハカに飛び、レンタカーでヤグルと呼ばれている遺跡へと向かった。2500年前に建造されたその場所には、今や空っぽになった儀式用の墓があり、メンディエタはそこで最初のシルエタ作品: Imagen de Yagul(ヤグルのイメージ)を1973年に制作している。
その写真に映し出されているのは、裸で墓に横たわったメンディエタが大量の白い小さなかすみ草の花で覆われている姿である。
イアサントと助手はその場に到着すると、メンディエタが写真を撮ったのはどこか管理者に聞いた。(職員の一人は以前、来訪者に同じ質問をされたことを覚えていた)──職員たちが立ち去ると、イアサントは緊張気味に服を脱ぎ去って花々のブランケットの下に潜り、墓の中で横たわった。

Ana Mendieta, Tree of Life, 1976. Photo: © 2022 The Estate of Ana Mendieta Collection, LLC. Courtesy Galerie Lelong & Co. / Licensed by Artists Rights Society (ARS), New York

イアサントは、これがメンディエタも感じたであろう感覚だと思った:湿った地面の冷たさと周りを蠢く虫たちのうっとおしさで、姿勢を維持するのも辛かった──それはイアサントの予想とも一致していた。
“とっとと終わらせたいと本気で思いました。” 写真からは分からないこの感覚をメンディエタも感じたならば、その平和的な趣旨は死を示唆するものではなく、長い間失われた生命力の回復を意図したものだ。

メンディエタの人気を支えているのは、そこに込められた深淵でありながらも親しみ易いメッセージと、視覚的な美しさだ。だが、彼女に力強いラテン系女性、スピリチュアルなヒーラー、家父長制の悲劇的な被害者といった役割を投影することもまた容易い。
モールズワースはこう語る。“最も大きな課題は、経緯を込めてこの物語を語る方法でした。怒りや擁護のどちらかに陥ることなく、誰かの意見を聞くまで先入観をもたないこと。そして、この物語を見世物的に扱わないこと。それでももちろん、この物語は壮大ではあるのですが。”

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