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読書ノート 「柄谷行人対話篇1 1970-83」 柄谷行人 他

 古い本ではあるが、読むべき内容はふんだんにある。ここでは、丸山圭三郎との対話(「ソシュールと現代」)を深掘りする。この二人の対話は丸山が鬼籍に入った今となっては、もうこれ以上のものがない。



 まず柄谷はソシュールを言語学者ではなく思想家と捉えている

 マラルメとソシュール、ヴァレリーとソシュールは驚くほど近い言語観を持っている。言語の非記号性(マラルメ)、不透明性(ヴァレリー)、ヴァレリーの形象とソシュールの形相の概念の相似について確認する。ソシュールとメルロ=ポンティは明らかに影響関係にある。

 柄谷のマルクス像とソシュールは似たところがあると丸山は指摘する。例えば、商品・貨幣の価値形態と言語記号の二重性、社会性のアナロジーはあまりにも近い。柄谷はソシュールの『一般言語学講義』しか読んでなく、原資料には触れていない(メルロ=ポンティも同様に原資料には一切あたっていない。にもかかわらず鋭い本質的な読みをした)。

 自身が語る柄谷の手法としては、本質的に違った回路にあるものを、強引にショートさせる。そうすることで違ったものが見えてくる。メタファーと一緒のことなのだが、非現実や狂気に陥らない、社会的に有意味なメタファーをさぐる。受け入れられるかそうではないかは紙一重。

 テル・ケル派は、マルクスとソシュールを主張の類似性で考えている。使用価値と交換価値というような二分法を、シニフィアンとシニフィエと置き換えていくだけではダメ。それでは陳腐なものにとどまらざるをえない。

 ソシュールの言語学とは、マルクスの『資本論』が経済学批判であるように、言語学批判なのではないか(柄谷)。『一般言語学講義(cours)』はソシュールではない(生徒のノート)ので、それがソシュールの思想とずれている部分は否めない。。一番誤解されているのは、「恣意性の原理」である。

 ソシュールの理論の根底には恣意性がある。むしろすべての理論が恣意性の原理の自明な帰結であると思っている(丸山)。ソシュールの恣意性は、非自然性。歴史・社会・文化・人為のもつ記号学的原理である。言語学の二重性(共時言語学と通時言語学の峻別)、言語は自然物ではなく、社会的な恣意的価値であることの帰結である。

 ラングは非自然的価値体系で、
 パロールのディスクール活動、
 シーニュのもつネガティヴィテ、示差性、対立によって生ずる価値、そしてその形相性も、すべて恣意性から来ている。

 ソシュールの記号学は「恣意的価値」を扱う科学。そこでは非言語的記号作用も、その背後に隠された無意識的ラングという文化の価値体系における差異化現象として位置づけられており、身振り、手話、象徴的儀式、パントマイム、モードまでがランガージュの特性のもとにその本質を現前する。そしてその特性こそ、否定性・示差性・形相性を基礎として生まれる価値、すなわち恣意的価値である(丸山)。


 秩序と混沌の区別の前に混沌があるのではないか(柄谷)。

 誤解された恣意性…「同じ事物や概念を、それぞれの言語では勝手に別々の呼び名であらわしている」すべては社会の約束事だ、という皮相な言語観から生まれる恣意性。これではギリシア時代の不毛なクラテュロス論争に逆戻り。ヘラクレイトス派(言語は自然かつ論理的)とデモクリトス派(言語は恣意的で社会慣習によるもの)の論争も参照。

 ソシュールの恣意性という概念の新しさは、本質必然と偶然現象という二分法の更に根底にあるものを恣意性としているところにある。

 マルクスヘーゲルを批判する時に、歴史を一つのテクスチャとして見る視点を提出する。そのテクスチュアは、「分業と交通」で編まれている。歴史は「テクスチュア」であって、「作品」のように主体や意味があるのではない。始まりも終わりもない。自然成長性(植物が繁殖していくイメージ)という言葉でそのテクスチュアを表す。

 共産主義というのは、その自然成長性を破棄し、社会を一つの工場としていく。一方、自然成長性は、アナーキズムによって受け継がれていく。ローザ・ルクセンブルグやトロツキーは自然成長性と目的意識性を弁証法的に統一することを志向した。

 ソシュールもマルクスと同様に、科学としての言語学をひっくりかえして、言語という自然成長的なテクスチュアを、つまり恣意的ー必然的という二分法以前の状態を捉えようとしたのではないかと思う(柄谷)。

 つまり、言語が必然的なのは、それが恣意的であるかぎりにおいてである(丸山)。

 ソシュールは「構成された構造」としてのラングから出発する。そして制度化された言語を現実の言語状況として認めながらも、これを本質的言語とはみなさず、その疎外、物象化のプロセスからつくられた惰性態であることを指摘した

 ソシュールの「ラングは必然的であり、恣意的である」という逆説は、「構成された構造」とその「記号学的構成原理」というふたつの次元にまたがっているため両義的。
 言語は人間が作ったものであるにもかかわらず、個人にとっては外的事実をもって経験され、自動的と言ってもいいやり方で、個人を規制し、無意識のうちに自らを拘束する「文化的必然」。
 ソシュールはまずこの歴史的経験のレベルに身をおいて、社会制度としてのラングの強い拘束力を指摘した後、こんどはラングの本質を照射する作業を通して、純粋な可能性のレベルから、「人間と社会の関係は、自然法則を超えた次元で作り作られる」ことを述べたのではないか(丸山)。


 ソシュールが言いたかったのは、そもそも個というもの、単位というものがはたして存在するのか、というところから出発している。

 丸山
「チョムスキーは、…ひとことで言えば経験主義を批判しているわけですが、そのうちにどういうわけかソシュールまでも一緒くたにしてしまって、二十世紀前半から盛んになったいわゆる構造主義では、表層構造の分布は捉えられても、生成意味の問題、あるいは人間精神のメカニズムは捉えられないと批判しています。しかしじつはソシュールは、まったくそうじゃないんです。…ソシュールはくり返し言語ほど歴史歴な産物はないと言っています。これは当然のことなんで、言語の歴史性について一度も否定していない。ただちょっと逆説めくんです。コトバは歴史的産物だから、いわゆる十九世紀的な歴史の方法では捉えきれない、次にコトバは社会的産物だから、デュルケム的な社会学的な方法では捉えられない、と。ある意味ではたしかに矛盾したことを言っている。ところがこれは、じつによくわかるんですね」
「ソシュールにとっては、言語は社会的産物であると同時に歴史的産物、つまりまったくの人為であり文化であり恣意的価値体系であるがゆえに、物理的時間の推移のもとにこれを追うことは無意味であるというのです」

 1957年にゴデルの原資料が出てきて、(ソシュールの)虚像から実像に移る。

 原資料を読む前の『一般言語学講義』に基づいた批判①ソシュールの恣意性は、デモクリトス的な相対主義にすぎない②どの言語の底にも「一般」「普遍」を見ているのではないか③共時態と通時態というのは、言語現実の無視ではないか、つまり、言語というのはどんどん変わっているという現実を無視して、二分法を持ち出すのは妥当ではない④フォルムという概念が伝統文法の形態、あるいはロシア・フォルマリズム的な意味で捉えられ、形式主義的に誤解させる、など。また⑤シニフィアンを無視してシニフィエを重視する近代ブルジョア的だ、労働の生産性がシニフィエの優位性のもとに隠蔽されてしまう⑥主体と物の関わりという現実の場における価値生産の面が無視されている⑦ソシュールは反歴史主義あるいは反ユマニスムに陥っている⑧エクリチュールに対して音声言語を優先させている、など。
 …これらは、原資料にあたれば吹き飛んでしまう。特にエクリチュールに対してパロールを優先したことなぞは、一度もない(丸山)。この音声言語中心主義がどこから出たかと言えば、『一般言語学講義』の中のバイイとセシュエの創作部分であった。

丸山
「ソシュールが誤解されていただけに、言語学そのものに対しても、大きな誤解が日本にはあるようです。たとえば竹内成明さんなんかがソシュールの名を出して言語学批判をしているが、いったいどの言語学について言っているのかなあと思う。たしかに言語学にもいろいろあるけど、ソシュールと自称「正統派言語学」を混同してもらいたくないんですね。「正統派言語学者」は「構成された構造」内の言語にしか興味がないんですね。反構造的な契機には全然興味を示さない。この構造がどう突き崩されるか、あるいはサルトルじゃないけど、我々は構造の産物でありながらそれをどう乗り越えていくかという、反構造的な契機には興味を持たない言語学者が多いんです。こうした人々こそむしろラング主義者と呼んで、ソシュールと区別したい。ソシュールの場合は、その究極の対象はラングではなく、むしろランガージュだったと思います。彼のラングは、ある意味では方法上の概念装置のようなものなんです」

 柄谷「一見して類似しているものに差異を見出すことと、相異なるものを結びつけることは同じことです」

 丸山「構造を乗り越えることは、構造外に逃げ出すことではなく、構造内に踏みとどまりながら、自らの既成性をたえず否定していくことじゃないでしょうか」永続的な止揚という言葉は、ひとむかし前やたらはやりましたが、それにかなり近い学問的な姿勢をもっているのがソシュールだと思うんです」


 丸山「時枝(誠記)さんがもしソシュールの実情を知ったらば、驚かれると思う」

 ラング自体の本質である差異の概念(示唆性、ネガティヴィテ、恣意性)

 時枝さんの言語学は国学的、「つくる」に対する「なる」、テクスト派

 ツリーとリゾーム(ドゥルーズ)、ツリーとセミ・ラティス(アレクサンダー)

 セミ・ラティスとはツリーと違い横断的な交差があり、中心がない

 生産力の発展は、セミ・ラティス的な構造のもと行われる。分業の網目の複雑さのなかから、ぜんぜん違うものがくっついた時に「発明」が起こる。ツリー的な分業ではそれはありえない。

 その演繹として、「農業は都市からできた」(ジェーン・ジェイコブス)都市にだけ、異種結合・分業の複雑化が可能であり、農村そのものは、それだけでは停滞してしまう。


 工業が発展している国は農業も発展している(アダム・スミス)


 丸山「翻訳機械は、言語の持つ広がりと深さを過小評価するオプティミスト」


 メルロ=ポンティ「言葉とは我々の実存が自然的存在を超過しているその余剰部分だ

 コノテーションとデノテーション

 ラングは
①潜在構造である
②他のコミュニケーションの体系は、すべて言語体系に依存した副次的代替体系
③他の記号学的体系と違い、「開かれた体系」である。

 ラングとパロールの両者が相互依存の形を取りながら、自らのコードを絶えずつ突き崩し乗り越えていくという発展性を蔵している。この意味でのパロールは、単に類推的創造の源であるばかりか、個人の言表行為が、あらゆる瞬間に世界の再布置化であり、新しい価値創造である。


 ソシュールの考えでは、意味は、シーニュの織りなす差異のモザイクからのみ生じる。

 三人のソシュール
①『覚書』を書いた比較・歴史言語学者としてのソシュール
②一般言語学講義を行ったソシュール
③神話・アナグラム研究者としてのソシュール


 丸山「言語記号は本質的に非記号なんですが、できあがった構造のなかでは当然、記号なんです」


 「コトバは記号ではない」という認識が、ソシュールの思想の根底にあった。コトバはいっさいの他の記号と異なって、自らの外にア・プリオリに存在する意味を指し示すものではけっしてなく、いわば表現と意味とを同時に備えた二重の存在。


 「意味は実体であるというよりは、むしろ差異体系の網目の間の空間」

 マンスフィールド
「人間の作った最大のものは言語であって、道具ではない」中枢神経の混乱から生じた悪夢を、表出、規則化することで始末する。そのために身体的な規則化(祭式や踊り)を始める。それによって混沌と過剰を処理していった。そういう規則性・分節性が言語になっていった。


 人間は過剰を背負いこまされたどうしようもない存在(柄谷)

 丸山「大衆は自分と無縁な意味の世界に閉じ込められるばかりか、その意味によって自分たちが逆に操作されてしまう。そういうことがあると思うんです」


 ヨーロッパ思想の底に「音声言語の代替体系としての表音文字」観がある。
…日本のような表語文字文化に育った人間から見ると、音声言語以前の、根源的書差「差延作用としての文字」観が、抵抗なく受け入れられる。



 丸山圭三郎が亡くなってから、ソシュールの思想の研究(というか進化)はどうなっているのだろう。チョムスキーの生成文法やプログラミング言語の話題は事欠かないが、実際のコトバ、ソシュールの考えていたことはもっと射程の広いものだと思う(でもきっと実用的、現世利益的でないのね)。
 「見えない世界」の筆頭である量子力学が発達し、量子の重ね合わせや量子テレポーテーションがNHKで特集を組まれる時代であり、これからはコトバの研究領域もソシュールがイメージしていたものに接近し、更に広げていけるのではないか。無意識の領域や阿頼耶識と絡めた話ができるのでは、などと夢想してみる。
 誰か私にソシュール研究の最前線を教授してはくれないだろうか。


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sakazuki
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