![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/169032098/rectangle_large_type_2_f10808f0cd08edb990e0ec3e947dfb98.jpeg?width=1200)
碧空を征く 最後の海軍航空艦隊 彗星艦爆隊員の手記より 第四章(後編)
この記事は、下記の記事の続きです。
昭和100年・戦後80年の節目のこの年。
「碧空を征く」は、特攻隊員としての父の実体験をもとに、戦争の悲劇と平和の尊さを伝える手記です。父が残した言葉を通じて、当時の歴史や心情を振り返り、未来へのメッセージを紡いでいきます。今回は、「彗星艦上爆撃機錬成員」(後編)です。
![](https://assets.st-note.com/img/1736174492-SQXo6JcF9lhzxu0RbfDMZEAU.jpg)
彗星艦上爆撃機錬成員(後編)
1945年(昭和20年)3月23日、南方に退避していた米機動部隊は、再び沖縄方面に来襲した。24日、艦砲射撃が開始される。同夜、連合艦隊司令長官より「天一号作戦」の発動が命じられた。
児玉大尉率いる210空1小隊及び2小隊は、大分空にて動爆訓練中にあり、直ちに第1国分基地に向かい、我等3小隊は明治基地に展開し、作戦に入る。
29日夕刻、彗星艦爆多数が飛来し、飛行場に急行する。1ヶ月前に別れた601空攻撃第1飛行隊百里原基地展開の面々が着陸してくる。
機より下り立つ搭乗員の顔は皆泥埃にまみれ、一様に白い歯を見せて笑みを浮かべている。その中に谷川少尉の姿があった。少尉とは1ヶ月前に「散る桜、残る桜も散る桜」と別れた谷川少尉との再会である。
搭乗員の泥塗れの顔は、敵艦載機の爆撃に遭い、その爆風の中、必死で離陸してきたと推測されたが、すぐその後の連絡で、原因は根本兵曹の離陸前の旋回機銃誤発による火災、及び搭載していた500kg爆弾に引火した爆発による火災と土砂被りであった。
逐次報告により悲惨な情報が伝えられ、戦友との再会を喜ぶ雰囲気にはなれず、この事故により15名から16名の死亡、30数名の重軽傷者を出す惨事となる。
3月30日、601空飛行隊は明治基地に到着し、進出完了となる。
翌31日、朝からの雨の中、兵舎で待機し、一昨日の根本兵曹の爆弾に引火暴発による戦死者の追悼の話にふける。
![](https://assets.st-note.com/img/1736175813-goJsz4Rtbekd5Sh0H3ru1GVy.jpg)
1945年(昭和20年)4月1日、14:00、天一号作戦により、601空攻撃第1飛行隊、第1国分基地に展開の命が下る。
惨事のために喪に服する状態で、酒を酌み交わし逢瀬を楽しむ暇もなく、ただお互い顔を見つめ合うだけで、言葉は無くとも、生きている喜びをかみしめ合うひとときであった。
「発進」の令が下る!生きている喜びを噛みしめ合った谷川少尉は、毅然として機上の人となった。
音楽を愛する少尉は、バイオリンをこよなく愛し、夜、士官室に遊びに行くと、密かに奏でてくれることもあった。また、彼は「艦爆隊の歌」を好み、いつか外出して酒を飲みながらこの歌を指導し、二人で放歌したこともあった。
『妖雲低く乱れ飛び、強風瓢々吹きすさぶ、嵐の空に雄々しくも、降魔の翼羽ばたける、ああ猛きかな、艦爆隊』
今、彼はまさに彼の好きな歌詞の一節、「降魔の翼はばたける」の権化となり、進出地九州国分基地に向け一路進路を取り、茜さす空へ消えていった。
谷川少尉率いる編隊の2番機、宇佐空時代の教員、山内末広兵曹より、熊本のご母堂に5円なにがしの送金を頼まれる。自分はもう使うことはないとのことであった。
1945年(昭和20年)4月4日、連合艦隊は陸海軍航空の総力を結集し、総攻撃開始を6日と決定した。
第三航空艦隊の主力は九州への進出を終え、4月1日進出を命じられた第10航空艦隊も逐次九州に集結していた。この航空攻撃の成果を利用し、戦艦「大和」以下が敵艦船群に殴り込みをかけ、沖縄第32軍は攻勢に転じ、敵を東支那海に追い落とす計画であった。
かくして、あらん限りの努力と術策を尽くしての特攻攻撃も、6日から11日までに海軍323名(215機)、陸軍98名(99機)の多くの特攻隊員が散華した。6日の攻撃で、我等210空、児玉光雄大尉率いる1・2小隊、10・20第2国分基地より発進し、奄美大島・徳之島東南方の敵艦船に突入せり。
第2国分基地発進の宇佐空時代の教官、教員、99艦爆で19名が突入している。出撃前に教えを受けた木村一郎教員に105飛行隊に行った同期の川崎の言によると、お会いした際、「教えたお前達は新鋭彗星艦爆で、教えた俺は旧式の99艦爆で出撃だ」と複雑な言葉を吐いておられたとのことである。
![](https://assets.st-note.com/img/1736176384-TeEc8vhtFWqjfu69bxQH0gN1.jpg?width=1200)
1945年(昭和20年)4月7日、601空攻撃第1飛行隊、国安昇大尉を隊長とする第三御楯特別攻撃隊は、午前11時20分に国分基地を発進。沖縄北端90度110マイル、彗星艦爆11機が敵機動部隊に突入し、散華す。
4小隊1番機、操縦谷川隆夫少尉・同偵察佐久間少尉、発信無電。
・14:10 攻撃目標ミユ。
・14:12 航空母艦ミユ。
・14:16 我敵艦ニ突入中。
を発信後、未帰還(戦死)。
第二次航空総攻撃。
戦艦「大和」の水上特攻突入、第三十二軍の反撃は成功しなかったものの、菊水1号作戦の戦果は大きいものと判断された。敵はひるんでいるのである。息もつかせぬ特攻攻撃だけが、戦勢挽回の鍵と信じられた。
しかし、8日から天候が悪化し、10日まで攻撃が途絶えた。11日は海軍特攻再開、神風特別攻撃隊210空2小隊鈴木文雄大尉率いる残存機彗星2機、零戦隊3機が敵機動部隊に体当たり攻撃を敢行する。
210空に残る艦爆隊は、我々3小隊明治基地待機の小隊だけとなった。菊水2号作戦は4月12日と決定された。
4月12日から15日までの特攻戦没者は、海軍222名(113機)、陸軍71名(71機)であった。
![](https://assets.st-note.com/img/1736174790-SW5yDYXTtOEnfCkbA3mQ7Jc6.jpg?width=1200)
水上中尉は 8月15日 百里ヶ原基地10:15発進 第4御楯特別攻撃隊 彗星艦爆8機とともに散華す
その時を同じくして、第五航空艦隊の建て直しとして、第三航空艦隊の本土決戦、いわゆる決合作戦へ向けての編成替えが実施された。210空は戦闘機隊のみとし、艦爆隊の操縦員の新屋(甲飛11期)、隠塚・梶野(甲飛12前期)、松下(甲飛12後期)の4名。
偵察員、加納中尉(海兵)、木村少尉(予13期)、斉藤少尉(予13期)、甲飛13期偵察員1名、計8名が急遽、第三航空艦隊601攻撃第3飛行隊(香取基地)に編成され転属となる。陸路移動で香取基地に到着するも、攻撃第3飛行隊は1昨日茂原基地に展開したとのことで、後を追うとなると夜間になるため、久方ぶりの娑婆でもあるしと、香取に1泊する。
午後、茂原基地に到着。隊長は藤井浩大尉、分隊長は田上吉信大尉、新谷大尉であった。飛行訓練中に飛行場指揮所に転勤の報告に行く加納中尉が隊長に着任報告をする。
「事局をなんと心得ているか!」隊長の一喝。士官、下士官8名が往復ビンタを受ける。娑婆での1泊が効いたのだ。
それもその筈、比島、南方その他でベテランの母艦搭乗員、生き残りの強者集団、攻撃第3飛行隊員の面々であった。
翌日早速、偵察員加納中尉を後席に搭乗させ、慣熟飛行後、降爆訓練を行う。降爆訓練は指揮所を飛行場内に移し、標的は白キャンパス、幅1メートル×長さ10メートルの一辺に同じ長さの白キャンパスを丁字型に芝生に張りつけ、丁字型の交点に隊長が椅子に座り双眼鏡で見上げている。
長辺軸に高度5000メートルより接敵後、45度の角度で交点に突っ込み、照準「1500、用意!打て」で操縦捍を引き上げ退避する操作である。
突っ込むと、飛行機の浮きや風の影響を操縦捍、フットレバーで左右に修正し、始めは大きく下降しつつ小さく修正し、軸線にピッタリ合わせる。一瞬、地球が迫り来る寸時の狙いである。
昨日ビンタを受けたこともあり、標的にドンピシャリ整合「1500用意・打て!」と後席偵察加納中尉が必死で伝声管を通じ高度を伝えるも、意識して高度ギリギリ、1000メートルで機首を引き上げる。
一瞬、物凄いGが掛かり目の前が真っ黒くなる。2回目もドンピシャリの降爆であった。着陸後、指揮所の人の話では、小生の突入時「あれは誰か?」と隊長が尋ねたとのことで、一変に松下兵曹と名前が知れ渡り大変嬉しい思いをした。601空攻撃第3飛行隊の第一印象である。
特に一番若く、丸々としていたので、当時漫画の「ふくちゃん」に似ているとのことで、「ふくちゃん」の愛称で非常に好感をもって可愛がられた。
転属が分けた生と死
(※ 投稿者注釈:以下の部分の記述と写真は、今回投稿者がこのカ所に移動し、掲載したものです。父の本来の冊子では、冊子の巻末の部分に掲載していました。その意図は不明です。時系列的にはこの場所が適切だと判断し掲載しました。)
![](https://assets.st-note.com/img/1735569817-XptnmuGvzlx9UFDYqocKZQCy.jpg?width=1200)
後列左より ・甲13期偵察 ・甲13期偵察 ・甲13期偵察 ・海兵73期偵察
前列左より ・加納中尉 海兵73期偵察 ・松下兵曹 甲12期操縦 ・甲13期偵察 甲13期偵察 ・海兵73期偵察
4月中旬操縦4名偵察4名で601空攻撃第3飛行隊 (K3) 茂原基地に転属、その写真の中加納中尉と松下(小生)である。
写真撮影者水上中尉、平野中尉、後列右北村中尉?と思われる、他甲13期後輩5名計8名の全員を含め、601空攻撃第1飛行隊、略称のK1(攻一)とK3(攻三)に別れた。
これぞまさに運命の分岐点であった。
K1転属の写真撮影者を含め8名全員、8月9日より、8月15日の間、終戦詔勅放送の、2時間前まで、百里原基地より発進し、攻撃をかけた第1飛行隊、第4御楯特別攻撃隊として散華する。
投稿者のコメント:父は退職後、母と一緒に夫婦で沖縄旅行に出かけたことがあります。いわゆる「フルムーン旅行」です。今でも母と亡き父の話をすると必ず出てくる「定番」の話題です。
フルムーン旅行の飛行機が那覇空港に着陸のための降下を始めた頃、父はポケットからおもむろに「数珠」を出し、窓から海を見つめて手を合わせていたそうです。
父にとって沖縄は観光地ではなく、激戦の地だったのです。父の上官、同輩、後輩が多数散っていった「鎮魂」の場所なのです。
父の戦後の生きざまを振り返ると、その意味合いと覚悟が分かるような気がしてきました。単なる「運命の悪戯」という言葉では片付けられない潮流があるのでしょう。(合掌)
あなたはどのようにお感じになりましたか?
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回へと続きます。
もくじ
終 章 「事後情報分析からの考察」
おわりに 「二つの命日」
資 料 「あの日の電信の意味するもの」
※ note掲載にあたって
この父の手記は、1990年(平成2年)頃から1995年(平成7年)頃に、父がワープロで当時の記憶をたどりながら、各種文献を基に記したものです。現在では、不適切な表現や誤った表記があるかもしれません。
また、歴史的検証や裏付け調査研究等は不十分です。その点をご理解の上、お読みいただければ幸いです。