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碧空を征く 最後の海軍航空艦隊 彗星艦爆隊員の手記より 第六章
この記事は、下記の記事の続きです。
昭和100年・戦後80年の節目のこの年。
「碧空を征く」は、特攻隊員としての父の実体験をもとに、戦争の悲劇と平和の尊さを伝える手記です。父が残した言葉を通じて、当時の歴史や心情を振り返り、未来へのメッセージを紡いでいきます。今回は、「出撃下令」です。
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出撃下令
8月13日未明、総員起こし。用意されたトラックに乗り、飛行場に駆けつける。
出撃準備命令が下される。一旦兵舎に帰還し、下着などを着替え、身の回りの整理を行う。父母に宛てた遺書をしたため、最後に「生死なし、己が心はただ一つ、義烈で砕く敵の艦へと」の和歌を残す。
ソビエトのウラジオストク攻撃との噂が流れる。燃料が片道分しかないため、ウラジオを攻撃後、朝鮮にたどり着くように内地に送り返すとの要旨である。再び飛行場の本部士官宿舎にて待機姿勢をとる。
日頃見かけぬ参謀や報道班員等も現れ、ただならぬ雰囲気が漂っている。
2階の会食室には、末期の水ならぬ、末期のスイカが山積されており、割っては中心の甘い部分のみを食しているため、階下にスイカの汁が滴り落ちるほどであった。
午後2時、「搭乗員本部前 集合」となる。
状況
あの快速を誇る彩雲偵察機から、「敵空母3、戦艦数隻発見・・・!我、敵戦闘機の追撃を受く・・ヒ、ヒ、ヒ連送後、電波途絶の悲痛な電信を最後に、通信途絶の慌ただしい、8月13日早朝の幕開けであった。
関東沖に来襲する米機動部隊に対し、攻撃をかけよとの命令が下された。攻撃目標が変更されたのである。
命令
木更津東方、敵機動部隊に対し、第三航空艦隊攻撃第三飛行隊の最後の切り札として、索敵攻撃、54機全機特攻をかける。
一番機は反復攻撃。二番機、三番機は特攻。成功を祈る。
一語、一語、はいふをえぐる万感の思いを込め、力強く、ゆっくりと、今生との引導を渡される。天空の一角を仰ぎ、涙で濡れた杉山司令官の声が響く。
眼窟に溜まった涙がときおり正視されると、大粒となり頬を流れている。幾たびかの戦闘に追われ、沖縄航空戦、菊水特攻作戦にも第二御楯特別攻撃隊に編成されたが、奇しくも生を得、続けた運命の悪戯か。
ついに年貢の納め時、一瞬我が脳裏に父母の面影が稲妻の如く駆け巡る。
胸中には、生きたい、生きたい、未だ俺は花の蕾の20才だ!!切々と生への執着心が沸き上がる。しかし同時に死ななくてはならないのだ。死ぬために訓練をしてきて、海軍切っての最新鋭、彗星艦爆で今がその好機、雲染む屍と覚悟した俺だという、使命感との葛藤は続く。なおも悶々と・・・・・。
司令より土器で受ける訣別の酒、別杯も気もそぞろで受けた状況の中、煩悶の胸中を拭い去った一つの転機が発生した。
攻撃第三飛行隊を率いる隊長、藤井浩大尉の声が響く。
「さあ!皆行こう、早く行かんと、他の輩から獲物を取られるぞ。獲物が無くなるぞ!」
その言葉に、ふと我に魂を取り戻し、「隊長が死ぬのなら俺も死ぬ」との決心が固まる。今までざわめいていた生への執着、雑念は、一陣の風に吹き飛ばされる霧の如く、我が胸中より消え去った。
決死隊であれば、死を決意しての目的達成であるが、その中には万が一でも生存への可能性が秘められている。
特攻隊となると、生への可能性は全くゼロである。体当たりしなくては目的を達成することは出来ない。死することにより目的を達成するのである。20歳の若輩に生を絶ち、目的達成に向かわせた動機は何であったか。
それは慣例的な祖国日本のためにとか、忠誠心、又は権威、威圧などでなく、自己の上に立つリーダーの技法等でない人間性によるものだと確信させた。
そして父母、兄弟、又は妻子を捨てての目的達成への強い、異様と思われる程の強いエネルギーは、物質でなく、人間と人間の信頼によって醸し出すものである。
「士は、己を知る人のために死す。」
訣別の帽振れの合図に送られ、トラックに乗り愛機の分散している飛行場へ向かう。弾扉からはみ出した800キロ爆弾を搭載した彗星43型機が我が棺桶である。
一番機の位置を確認し、試運転に入る。心を込めた整備員のおかげで全て快調である、異常なし!整備下士官より、爆弾の安全栓を抜き取り、赤札のついた安全栓を受け取る。
さあ、何時でも爆発する態勢である。
第一小隊は離陸を開始、砂塵を巻き上げ、誘導路上我々の頭上すれすれを発進している。「二番機、離陸準備よし!」一番機に連絡をとる、「発進」「チョーク外せ」「見張りよし」。ガタガタの誘導路に全神経を傾注し、滑走路に出る。
一番機に続き離陸態勢に入る。赤ブーストレバーを引いての離陸。800キロ爆弾を搭載しているため、中々離陸速度に達しない。やっと地を離れ浮き上がる。
即一番機を目指して二番機の定位置につき、編隊飛行に入る。三番機もつき、進路を東にと渥美湾上に出る。
太平洋上遙彼方は、気持ちの悪い程黒くなっている。この世での見納めと薄れ逝く青き山々の日本本土に別れを告げる。
スコールだろう前方の黒い空、計器飛行に入る心の準備をする。
暫く飛行を続けると、急に一番機が左右に翼を振る。バンクをとっている。すわ敵機かと見張りに目を凝らすと、一番機から隊内電話で、「天候不良、引き返せとの基地からの電信あり」「只今より帰投する。」
80番を抱いての着陸は脚を折るので、編隊を解いて一列で旋回しながら太平洋上に落とす。急激に機体が軽くなり、浮き上がる高さに驚嘆しつつ帰投する。全機次々着陸し、指揮所内で搭乗員は地上待機となる。
「何故行けないか」と憤懣やるかたない雰囲気の中で、その反面再び生を得た安堵感がただよう中、喜怒哀楽がすぐ顔に出る小生は、尻をひねりながら、その雰囲気にあわせるのに苦労した。
待機姿勢は、飛行場に夕闇迫る頃まで続く。
翌14日と15日は飛行場にて待機となり、15日は正午士官室前、搭乗員集合となる。終戦玉音放送のラジオを聞くも、雑音多く聞き取れない。
本土決戦に対しての決意であろうと、聞き取れないままやり過ごす。
終了後、士官室のベッドにて昼寝を数人できめこむ。まどろむこと1時間経ったであろう、突然海兵出身の士官が、「日本が負けた!」と怒鳴り込んで来た。
「そんな馬鹿なことがあるか」と鼻にも掛けずにベッドに眠り続けた。
しばらく経ったであろう、2、3人の搭乗員が涙ながら負けた旨を訴えているので、疑心暗鬼で立ち上がる。司令室付近は異様な空気に包まれている。夕刻、分散兵舎に帰る。
翌16日早朝より飛行場指揮所に詰める。0900頃、彩雲偵察機よりビラが指揮所上空に撒かれる。
それを見ると、ガリ版刷りのビラで「国民諸氏ニ告グ」と題されたこのビラは、「赤魔ノ巧妙ナル謀略ニ翻弄サレ、必勝ノ信念ヲ失ヒタル重臣閣僚共ガ上聖明ヲ覆ヒ奉リ、下国民ヲ欺瞞愚弄シ、遂ニ2000古未曾有ノ詔勅ヲ配スルニ至レリ」に始まり、「天皇ノ軍人ニハ絶対ニ降伏ナシ」「我等航空隊ノ者ハ絶対ニ必勝ノ確信アリ」と訴え、「今コソ真ニ一億総蹶起ノ秋ナリ」で結ばれていた。
豪雄小園安名大佐の率いる厚木の302航空隊からの檄文であった。
沈滞した空気を突き破る如く、我等攻撃第三飛行隊はマリヤナ基地に片道特攻を賭けようと、暗黙の内の命令で各自準備に専念した。やっと躍動する空気に変わり、皆いき活きして決行の時を待った。
18日、飛行場に出ると、大変化が起きていた。
昨夜、鈴鹿の本隊から司令の命により、急遽輸送機で多数の整備員が送り込まれ、17日の夜間徹夜にて、我が精鋭の彗星艦爆54機、全機のプロペラが外されたのである。
万事休す!20日以降の飛行禁止命令が下達された。
反乱の恐れ事前防止故か、8月25日付け、任 海軍上等飛行兵曹。同日付け復員下令となる。
再起の秋を期して、攻撃第三飛行隊搭乗員は復員して待機せよとのことで、名古屋基地を早々に名古屋駅までトラック輸送で出される。
九州地区、中国地区、四国地区・・別に満員の復員列車で京都にて皆と別れ、単独にて松江に向かう。
以上
※ ここまでが、父の手記の本編部分でした。
投稿者のコメント:このように、父は8月13日に「生と死の喜びと悲しみ」を同時に味わったのです。そして、当時の心境を父ならではの視座で赤裸々に綴っていました。
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私は幼い頃から、父がスイカを食べている姿を見たことがありません。母は私に「お父ちゃんはスイカが嫌いなんよ」と言うだけでした。
8月のあの時、2階の会食室から階下にスイカの赤い汁が滴り落ちる光景を、父はどのような思いで見ていたのでしょうか。想像するだけで心が締め付けられる思いです。
我が家では毎年のお盆に「スイカ」を供えることは今でもありません。ちなみに、父以外の家族全員が「スイカ」は好物です。
一方、800kgの爆弾を抱えての離陸や、海中へ投棄した後の機体の急上昇などの描写は、操縦士本人でしか書くことのできない文章だと思いました。
そして、「尻をひねった」という一文には、誠に父らしい思いが込められています。
他にも父について書きたいことがありますが、後に譲ります。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回の章は、1994年(平成6年)頃に、父が書籍などからの情報を基に構成・記述した資料編としての手記です。
引き続き、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。
もくじ
終 章 「事後情報分析からの考察」
おわりに 「二つの命日」
資 料 「あの日の電信の意味するもの」
※ note掲載にあたって
この父の手記は、1990年(平成2年)頃から1995年(平成7年)頃に、父がワープロで当時の記憶をたどりながら、各種文献を基に記したものです。現在では、不適切な表現や誤った表記があるかもしれません。
また、歴史的検証や裏付け調査研究等は不十分です。その点をご理解の上、お読みいただければ幸いです。