嫌われる勇気 No25 居場所、仲間
皆さんは、命を燃やして一斉に光るホタルの群れを見たことがありますか?
その光はやがて点滅し、同調し、大きな1つの鼓動のようにビートを刻む…
今日はそんなお話です。
対人関係のゴール
青年は、単刀直入に訊きます。「対人関係の”ゴール”はどこにあるのです?」。哲人は、言います。「共同体感覚です」。
哲人、「他者を仲間だと見なし、そこに自分の居場所があるとかんじられることを共同体感覚といいます」
アドラーがこの概念を提唱した時、多くの人々がアドラーのもとを去ったそうです。それだけ議論の分かれる概念のようですが、私は、少しわかる気がします。
私は、からだへの援助を通してそのひとのあり方に働きかける心理療法を専門とします。適用範囲は広く、メンタルを病んだ人から、身体障害や発達障害と言われるような人(”ような”と付けるのは、障害という言葉が嫌いだからです)、高齢者、等々。
年に一回、この心理療法を受ける人達が集まって、一週間”キャンプ”をします。キャンプと言っても、施設の一部を借りて、共同生活をしながらセッションをするのですが。援助を受ける人、援助者、指導者、援助を受ける人の家族、皆が一か所で過ごす一週間は、途中から異様な雰囲気に包まれます。
集団が同調し、大きな流れのようなものができます。手拍子のリズムが揃ったり、個々が自分の持ち味を発揮して集団に関わるようになります。
もしかしたら、こういう感覚が共同体感覚なのかな、と思います。
共同体感覚
「至極まっとうな主張」と評する青年に対し、哲人は、「問題は共同体の中身です」と説明します。容易に想像し得る、家庭や学校、職場、地域社会などの共同体は良いですが、なんと、国家や人類、時間軸においては過去から未来も含まれ、動植物や無生物、そして、宇宙全体までも含んだ、文字通りすべてが共同体だというのです。
唖然とする青年に、哲人は、「即座に理解するのは難しいでしょう。アドラー自身、自ら語る共同体について”到達できない理想”だと認めているくらいです」とフォローします。
社会への関心
共同体感覚は英語で「social interest(社会的関心)」と訳されます。社会への関心という時の”社会”の最小単位はここでは、わたしとあなた。そして、わたしとあなたという社会の最小単位を起点として、自己への執着(self interest)を、他者への関心(social interest)に切り替えていくと説明されます。
ここからはちょっと難解な論理展開があります。
まず、自己への執着という言葉を自己中心的と言い換えます。そして、課題分離ができておらず、承認欲求にとらわれている人もまた自己中心的と見ます。他者に承認して欲しい、つまり、自分を見て欲しいから自己中心的。
他者の視線を気にした承認欲求は自己への執着にほかならず、それは、他者への関心ではない、というのです。
私なりの解釈ですが、自分について考える時に、他者から見た自分を考えるのではなく、自分が他者を見る方向にベクトルを向け変えることなのかなと思います。
確かに、「あの人から怒られている」と思うよりも、「あの人は怒っている」と考える。「あの集団から必要とされている」と思うよりも、「あの集団は慈善活動をしている」と考える。すると、どうでしょう、その他者、つまり、世界、と、私の関係が各々少し輪郭を持って際立ってくる。「怒っているあの人と、私」とか「慈善活動をしているどこそこと、私」とか。
各々が際立ち、それでいて、同調する共同体、そこに居る感覚が共同体感覚なのかな。
ホタルの刻むビートみたいに。