教育とは”介入”か?
幸せになる勇気 No5 アドラー心理学と教育
どこまでも問い続けること、愛知者であること、その精神が前提であることを共有した青年と哲人は、青年の具体的な課題に足を踏み入れていきます。
教育における難しさ
青年は、喫緊の課題を教育と置き、「教育を軸に、アドラーの矛盾を暴いていきましょう」と意気込みます。
まず、引き合いに出したのが、課題の分離という概念。”自分の課題”と”他者の課題”を切り分けて考えるというアドラー心理学のキー概念です。
詳しくは、こちらに3ステップにフローチャート化してみましたのご覧ください。
青年は言います。「他者からの評価を気にせず、他者からの承認も求めない。ただ自らの信じる最良の道を選ぶ。さらには他者の課題に介入してはいけないし、自分の課題に他者を介入させてもいけない」
完ぺきな説明です。そして付け加えます。「それが誰の課題であるのか、見分ける方法は簡単である。”その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰なのか?”これを考えればいい」
そして、この課題の分離を教育に転化した時、子どもが勉強をしない時に、その勉強をしないことを最終的に引き受けるのは子ども自身であって、親ではない。勉強は子どもの課題であり、親が介入すべき問題ではない。
これについて、青年は悩むわけです。
「勉強を押しつけるわれわれ教育者は(青年は教師)、子どもの課題に土足で踏み込む、不法侵入者の集まりですよ!ははっ、どうです、答えられますか?」と自らを貶める。
”教育”、それは広い意味では子育ても入るでしょう。ここに課題の分離を持ち込むこと。大変な不協和音が生じる。子どもとその大人、他の大人同士、なぜなら、しみついている価値観と教育観に全くそぐわないから。青年は正しくその音を感じ、はたと立ち止まってしまった…。
教育は最大の希望
しかし、哲人は言います。「アドラーの時代、彼ほど教育に力を入れた心理学者はいませんでした。アドラーにとっての教育は、中心課題のひとつであるばかりか、最大の希望だったのです」
一見介入と見間違える教育。その教育の中で課題の分離というルールを守りながらいったいどのように立ち居振舞うというのか。
まず、前提として、「アドラー心理学では、カウンセリングのことを”治療”とは考えず、”再教育”の場だと考えます」というのです。
カウンセリングも教育も、本質的には同じ、というのです。カウンセラーは教育者であり、教育者とはカウンセラーである、と。
再教育の場、なるほど、ではその再教育の場で重要となる目標とは何か。なぜ、”再”なのか。再とつくからには、再び、とは、もう一度、何かに取り組むという意味なのか…。
また、明日!!