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それ、誰の課題?

嫌われる勇気 No19 課題の分離

「青年の苛立ちはピークに達していた」

こう始まる、第三夜”課題の分離について”。基本、夜に青年が哲人の家を訪ねていくという設定。結構、仲良いですよね…。

さぁ、来ました!!私が一番大好きで、自分の心理カウンセリングにもかなり影響を与えている部分。課題の分離、か・だ・い・の・ぶ・ん・り!!

これは誰の課題なのか?

親からさせられていた勉強を全然好きになれなかったと述べた青年に対し、哲人は言います。「たとえば目の前に”勉強する”という課題があったとき、アドラー心理学では”これは誰の課題なのか?”という観点から考えを進めていきます」と。

よく、本当によくあるし、自分にとっても大いに心当たりありますよね。親から勉強しなさいと言われたり、親として勉強しなさいと言ってしまったり…。

哲人「勉強することは子どもの課題です。それに対して親が”勉強しなさい”と命じるのは、他者の課題に対して、土足で踏み込むような行為です。われわれは、”これは誰の課題なのか?”という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです」「他者の課題には踏み込まない。それだけです」

むむっ、むむむっ…。

課題の分離

「あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーによって引き起こされます」と哲人は言います。そして、「課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう」と。

でも、でもね、それが誰の課題なのか見分けるのって難しいですよね。例えば、子どもに勉強させるのは親の責任って気もするし、宿題を忘れた児童を怒るのは先生の責務って気もする。青年も同じことを思っていたようです。

それに対する哲人の回答はシンプルです。それは、「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」という判断基準です。対して青年は、「”子どもに勉強をさせること”は親の課題でしょう」と反論します。哲人は、淡々と、「親たちは、頻繁に”あなたのためを思って”という言葉を使います。しかし、親たちは明らかに自分の目的ーそれは世間体や見栄かもしれませんし、支配欲かもしれませんーを満たすために動いています。~つまり~「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです」

思春期の親への反抗の謎がちょっと解けた気がしませんか?そう、子どもは敏感に親や大人の欺瞞を察知している。自分たちの身勝手な思想を押し付けようとしている大人に反抗しているのです。

自分を変えることができるのは、自分しかいない

この課題の分離の話題、心理カウンセリングにまで波及します。

「アドラー心理学のカウンセリングでは、相談者が変わるか変わらないかは、カウンセラーの課題ではないと考えます」「カウンセラーはそこに介入できないのです」と。「いやいや、そんな無責任な態度が許されますか!」と怒鳴る青年に、哲人は、とっても分かり易い例を提示します。

私も大好きな例、それは、

馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない

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カウンセリングにおいては、無論、精いっぱいの援助はする。でも、その先は踏み込めない。哲人「自分を変えることができるのは、自分しかいません」。

また、明日。



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