私が、このnoteを書く目的
嫌われる勇気 No20 課題の分離2
名著「嫌われる勇気」の読書感想文も20回を迎えました。ページ的に言うと、150/294。やっと五合目といった所でしょうか。五合目…。こっから自分の足で歩いて登ってく感じでしょうか…
そもそも、私がこのnoteを書いているのはなぜか。今日は後半でその目的と課題を考えてみたいと思います…
他人の課題を切り捨てよ
「むずかしい、むずかしいですよ、それは!」青年は叫びます。何が起こったのか。それは、青年が引きこもりの友人の例を出した時の一幕、哲人がその友人の親の立場としてこう言ったからです。「引きこもっている状況について介入しようとせず、過度に注目することをやめる。その上で困ったときにはいつでも援助する用意がある、というメッセージは送っておく。~むしろ距離の近い家族だからこそ、もっと意識的に課題を分離していく必要があります。~相手のことを信じること。これはあなたの課題です。しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。~たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるか。愛することができるか。アドラーの語る”愛のタスク”には、そこまでの問いかけが含まれています」
ちょっと長い引用ですみません。
小学生の頃、丁度今頃の季節、みんなでプールの大掃除をしていました。その時、先生が、底のラインを塗料で書き直していて、何を思ったか私は、そのラインを踏もうとしたのです。「もう乾いているかなぁ」程度の確かめの感じだった気がします。その時、先生がプール中に響き渡るような声で、
「踏むな!!踏むんじゃない!!」
と烈火のごとく怒鳴りました。私は、差し出した足を止め、その場で立ち尽くしました。冒頭の挿絵を作っていてそんなことを思い出しました。
「親不孝を推奨する哲学など、どこにありますか!」という青年に対し、哲人は言います「”自分の信じる最善の道を選ぶこと”それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です」と。
私の目的
私がこのnoteを書く目的は、「自分を表現すること」です。実際書いていて楽しいです。YouTubeで動画を作ったり、パワーポイントでスライドを作って、貼り付けながら、文章を考える。ちょっと、引用しすぎて、引用メインみたいになっちゃうこともありますが…。
私は、重度の赤緑色盲です。わからない、それは、多くの人々が色の三原色を感知する細胞がそれぞれ十分にあって、私には、赤を感知する細胞がほとんど無いというだけで、重度も軽度も本当は無くて、それさえもただのマジョリティとの比較です。もちろん自分を定義するために方程式の1つだとは思いますが。
かつてより、その比較故に、私は、”表現”を抑えてきました。例えば自由な絵画表現とか。でもそれは人生の嘘でした。「色盲だから」と理由付けして。自分を表現するのが怖いという目的を達成するために作り出した嘘でした。
心理カウンセラーになって、心理士の中立性と秘密主義、カウンセラー自身の自己開示衝動への自戒、これは、絶好の隠れ蓑だったと思います。
でも、職業人としての配慮義務と、自分の生きたい人生を生きること、それは別だと気づきました。そこには課題の分離が必要でした。この嫌われる勇気という本に出会って、その気づきが得られたことは本当に私の人生を大きく変えたと思います。だから、その変化の軌跡を残す意味で、このマガジンを書いています。
私の目的は、私の生きたい人生を生きること、であり、私の課題は、自己表現を思う存分にすること、です。
次回は、大好きな、”ゴルディオスの結び目を断て”の回。書くことが楽しみです!!