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存在に価値がある

嫌われる勇気 No30 アドラー心理学における存在価値とは?

青年は釈然としません。「誰かの役に立ててこそ、自らの価値を実感できる。~突き詰めるとそれは、生まれて間もない赤ん坊、そして寝たきりになってしまった老人や病人には、生きる価値すらないことになってしまう」と疑問を投げかけます。

他者を見る”見方”

そうそう、青年が言う通り、これまでの課題の分離から共同体感覚に至る経緯や、共同体感覚のある中での他者への援助の仕方を見ていると、なにかとても高邁な振る舞いを求められているように感じてしまいます。しかし、次の哲人の言葉を聞くと、その懸念が一気に吹っ飛びます。

哲人は、施設に入って寝たきりの青年の祖父や悪いことばかりしている子どもの例を出しながら言います、「他者のことを”行為”のレベルではなく、”存在”のレベルで見ていきましょう」と。そして、「他者が”何をしたか”で判断せず、そこに”存在していること”それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです」と述べます。

この哲人の言葉に対する青年の返しがまた面白い。「ご冗談もほどほどにしていただきたいですね!”ここに存在している”だけで誰かの役に立っているとは、いったいどこの新興宗教ですか!」

私が勤務する精神科病院には様々な患者さんがいらっしゃり、また、入院されています。一緒に働いている精神科医の先生ともいつも議論になるのですが、患者さんについて、ご家族も、もしかしたら、私たち支援者もなかなか存在としては見れない。その行為でそのひとを価値づけてしまう。でも、違うのかもしれません。もちろん、青年のように、そこには正直な葛藤もありますが…。存在としてそのひとを見られるのか。大きなテーマです。

誰かが始めなければならない

憤る青年、「学校にも行かず、就職するでもなく、鬱々と家に引きこもっているような子どもに対しても、”ありがとう”と感謝の言葉を口にせよというのですか?」と食って掛かります。

「もちろんです」ハッキリと哲人は言います。「素直に”ありがとう”と声をかけることができれば、子どもは自らの価値を実感し、新しい一歩を踏み出すかもしれません」。一切引きません。

青年は激昂し、「ええい、偽善者だ偽善者!~共同体感覚だの、横の関係だの、存在への感謝だの。いったい誰に、そんなことできますか!」

そう。とっても難しい。「俺には無理」と思ってしまう。でも、どこかで、できたらどれだけ良いだろうか、と思っている自分もいる。そんなわたしを見透かしたかのように哲人は、アドラーの言葉を引用して言い切ります。

「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」

わたしから始めます。
ひとは、その存在に価値がある。

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