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嫌われる勇気 No24 全体論

嫌われる勇気p174より、”青年は憤然たる面持ちで扉をたたいた”。

個人心理学への誤解

青年は言います「課題の分離、~たしかに対人関係の悩みは減るでしょう。しかし、そんな生のあり方が、ほんとうに正しいといえますか?~要するにアドラー心理学、すなわち個人心理学とは、人を孤立へと導く個人主義の学問なのでしょう」

個人心理学へのこういった見方は、課題の分離について考えてもどうしても出てきます。私は、この本に出会ってから、ある意味、岸見先生のアドラー心理学にどっぷりはまり、もちろんそれは、実生活にもにじみ出るわけです。家族にもそういった話をすると、「無責任な」という批判が返ってきます。まぁそこは、課題の分離をしているつもりですが、要は、そういった意見を持つことは当然あり得る話なのです。

哲人は、確かにそういった誤解はあるとしながらも、個人心理学の本来の意味を説きます。それは、「分割できない」という意味。「要するに、これ以上分けられない最小単位だということです」

分けられないとは?

精神ー身体、理性ー感情、意識ー無意識などあらゆる二元論的価値観に、アドラーは反対した、と哲人は説明します。

対し、明確に分けるべきとする青年。「心と身体、理性と感情、意識と無意識、これらをしっかりと切り離して考えるからこそ正しい人間理解ができる」。確かにそちらの方が分かり易い。

哲人は、以前青年が例示した”カッとなって怒鳴ってしまった”というエピソードを引用し、「カッとなって他者を怒鳴りつけたとき、それは「全体としてのわたし」が怒鳴ることを選んだのです。~ここで「わたし」と「感情」を切り離し、「感情がわたしをそうさせたのだ、感情に駆られてしまったのだ」と考えてしまうと、容易に人生の嘘へつながっていきます

よく言うし、よく聞きます「つい感情的になって…」と。”的”とついているからまだ良いのかもしれませんが、容易に原因論にわたしたちは足を踏み入れてしまう。

全体論

哲人はズバり定義づけます、「人間をこれ以上分割できない存在だととらえ、”全体としてのわたし”を考えることを”全体論”と呼びます」と。しかしそれは結局孤独を導くのではないかと譲らない青年。

哲人は、まず、課題の分離について「他者を遠ざけるための発想ではなく、複雑に絡みあった対人関係の糸を解きほぐしていくための発想なのだと考えてください」と諭します。その上で、「対人関係は、課題を分離したところで終わるものではありません」と言います。

そう、課題の分離は、それで終わりではなかった。続きがありそちらの方がより重要というわけです。

哲人「課題を分離することは、対人関係の出発点です」

では、ゴールは?

また、明日。

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