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三鷹 太宰治ゆかりの地をめぐる

 三鷹駅で少し時間があったので、太宰治ゆかりの場所をいくつか回ってみました。

日本近代文学を代表する作家・太宰治は、38歳という短い生涯の中で昭和14年9月より三鷹の下連雀に家族とともに移り住み、疎開期間を除いて約7年半を過ごしています。三鷹は、まさに、太宰治の創作活動の拠点となった地と言えるでしょう。

太宰治文学サロンHPの解説文より

三鷹跨線橋

 JRの線路をまたぐ跨線橋です。太宰治のお気に入りの場所だったとのことで、ここで写した太宰の写真も何枚か残っているようです。橋の上からは富士山がきれいに見えました。太宰も、同じ富士を見たのですね。当時は、眼下に武蔵野の平野が広がっていたのでしょうか。
 残念ながら、近々取り壊されてしまうので、最後に見ることができてよかったです。

三鷹跨線橋 あんまりいい写真じゃないですね…

 網がかかった以外は、太宰の時代と変わらぬたたずまい。こんな橋までが聖地になるとは、太宰の人気はすごいですね。三鷹駅から武蔵境側に10分ほど歩いたところにあります。

太宰治文学サロン

 太宰が通った酒屋、伊勢元酒店の跡地に建つ施設です。

夕飯の仕度にとりかかっていたら、お隣りの奥さんがおいでになって、十二月の清酒の配給券が来ましたけど、隣組九軒で一升券六枚しか無い、どうしましょうという御相談であった。順番ではどうかしらとも思ったが、九軒みんな欲しいという事で、とうとう六升を九分する事にきめて、早速、瓶を集めて伊勢元に買いに行く。

太宰治『十二月八日』より

 こんな風に、太宰の小説にも伊勢元の名前が登場しています。 
 サロンでは、太宰本人の作品、太宰について書かれた解説書、太宰の友人たちの作品などを自由に読むことができます。太宰のグッズも売っていたので、横顔入りのコースターを購入しました。時間があれば、本を読んだり、ボランティアの方々に太宰の話を聞いたりしたかったです。三鷹駅から徒歩3分ぐらいの距離です。

サロンの前にある解説板

三鷹市美術ギャラリー内 太宰展示室

 三鷹にあった太宰家の邸宅が、三鷹駅前にある三鷹市美術ギャラリー内に「三鷹の此の小さい家」として一部復元されています。下記の太宰治らしい文章にちなむ名前です。

私には、家庭さえ無い。三鷹の此の小さい家は、私の仕事場である。ここに暫くとじこもって一つの仕事が出来あがると私は、そそくさと三鷹を引き上げる。逃げ出すのである。旅に出る。けれども、旅に出たって、私の家はどこにも無い。あちこちうろついて、そうしていつも三鷹の事ばかり考えている。三鷹に帰ると、またすぐ旅の空をあこがれる。仕事場は、窮屈である。けれども、旅も心細い。私はうろついてばかりいる。いったいどうなる事だろう。私は人間でないようだ。

太宰治『誰』より


復元された太宰家の玄関。

 邸宅内は展示室になっていて、今は杏の実」から「オリンポスの果実」へ 田中英光の開花、太宰治という師』という特別展をやっています。
 
 田中英光は、太宰治と同じ「無頼派」の作家ですが、同人誌で田中の小説を読んだ太宰が、田中に宛てて激賞のハガキを書いたのだそうです。そこから二人の師弟関係が始まり、太宰は田中のために小説出版の労を取るなどして面倒をみます。特別展のタイトルにある『「杏の実」から「オリンポスの果実」へ』は、太宰のアドバイスで、田中が小説のタイトルを変更したことを意味します。
 私は、太宰の生涯に全く詳しくないのですが、太宰がこんな風に親身になって誰かの面倒をみるのは珍しいのではないでしょうか。

 田中の方も太宰を慕い、兵役や大陸での会社勤めの間を縫って太宰宅を訪ねています。三鷹付近が空襲に遭った際も、太宰と田中は一緒に防空壕に逃れています(太宰の家族は一足先に甲府に疎開していた)。
 それほど慕っていた師匠の死を、田中英光は受けとめることができませんでした。衝撃のあまり睡眠薬中毒となり、最期は太宰の墓前で手首を切り、その傷がもとで亡くなりました。
 

太宰治の愛弟子、田中英光

 この特別展を見るまで、田中英光という作家を知りませんでした。太宰治の愛弟子であると同時に、西村賢太さんが若い頃に敬愛していた作家でもあるようですね。Amazonでも、西村さんの影響で田中英光の小説を読んだというレビューが多かったです。
 
 これまで日本近代の私小説を何冊か読んできたのですが、島崎藤村や田山花袋らの自然主義文学では、男女関係を中心とした主人公の生活が赤裸々に書かれています。まるで、小説のネタにするために、競って女漁りをしているのか? と思いたくなるほどに(徳田秋声は作中でそのことを認めています)。
 大正期の私小説作家、葛西善蔵や嘉村磯多になると、「生きづらさを抱えた自分」「不器用でダメな自分」に焦点があてられます。
 その意味では、田中英光は葛西や嘉村の後継者と言えそうですが、大きな断絶もあります。葛西や嘉村は、はたで見ても、「この人、生きづらそう」と思ってしまうタイプだと思います。特に嘉村は「卑小で醜く、どうしようもない自分」を抱え込んでのたうち回っています。

 それに対して、田中はオリンピックの漕艇選手で、女性にも人気があります。一部のマッチョな男性に軽んじられる部分はあるにしても、魅力的な人物だったのだろうとわかります。妻とはしっくりしないものの、太宰治同様、子煩悩な父親でもあったようですし。葛西や嘉村が人から同情される(または、見下される)のに対して、田中英光は人から憧れられる存在だったのです。

 それなのに、心の中に闇があって、その闇が彼を飲み込んでしまいました。なので、同じ私小説でも、田中の作品は、単純に自分の私生活をさらけ出すのではなく、表向きの自分、本当の自分、ある時外に出てきてしまう闇の自分などが重層的に描かれています。
 太宰治の私小説を長らく読んでいないので、ぼんやりした印象になってしまいますが、田中英光の小説を読んだ太宰は、自分と似た魂を見出したのかもしれません。

 少し長くなったので、田中英光の個々の作品については次回に回します。
 三鷹市には、他にも太宰治のお墓(というか、私にとっては同じお寺にある森鷗外のお墓の方が重要なのですが)もあるので、またいつか訪問したいです。
 
 


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海人
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