自己嫌悪とリストラ 二葉亭四迷『浮雲』 【青空文庫を読む】
学校で習った戦前の文学史、最初に出てくるのは、戯作者・仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』、坪内逍遥『当世書生気質』、そして二葉亭四迷の『浮雲』という感じでしょうか。
青空文庫には、仮名垣魯文や坪内逍遥の小説はないので、今回は、二葉亭四迷の『浮雲』を取り上げます。
二葉亭四迷といえば、「自己嫌悪に陥って、自分をくたばって仕舞えと罵ったことから、ペンネームを二葉亭四迷にした」というエピソードが有名です。自己嫌悪の叫びをペンネームにするなんて…。『余が半生の懺悔』という随筆を読むと、「俺みたいな冴えない奴が小説を書こうと思うなんて、どうかしてる。あー、ダメな俺」的な自己嫌悪&自己卑下の文章が並んでいます。
まあ、自己嫌悪や自己卑下の気持ちを抱く作家は少なくないですが。太宰は『人間失格』を書いていますしね(ワザ。ワザ)。でも、彼らの場合、卑下する気持ちが、一方では芸の肥やしになっている気がするのです。または、卑下する心が自己憐憫という陶酔に転じることもあり。
でも、二葉亭の場合は、自己嫌悪の心が彼を打ちのめすだけ。「俺には小説を書く資格がない」と考えて、第一作『浮雲』を書いた後、19年間も小説を書かずにいたほどです。
夏目漱石は二作目の『其面影』に賛辞を寄せたのですが、「俺は文学者なんかじゃないんだ」という二葉亭のよじれた苦悩を知り、「賛辞を送るなんて、余計なことをしなきゃよかった」と後悔しています(『長谷川君と余』より。長谷川は二葉亭の本名)。心の病を経験した漱石には、二葉亭の苦しみが理解できたのかもしれません。
こんな風に己の心と格闘する一方で、二葉亭四迷には、幕末の志士たちにも通じる、天下国家を憂う強い気持ちがありました。
彼がツルゲーネフの小説を翻訳したのは知っていたのですが、山田風太郎さんの明治小説で「二葉亭がロシア語を学んだのは、ロシアという国に脅威を感じていたため」ということを知りました。明治の作家は外国語に堪能な人が多いですが、西洋の文化を知るために外国語を学んでいるのであって、二葉亭のような理由で語学を学ぶ人は珍しいのではないでしょうか。
彼のロシアへの警戒心は生涯続き、陸大や海軍大学でロシア語を教えたり、朝日新聞の特派員としてロシアに渡ったりしています。亡くなったのも、ロシアから日本に戻る船の中でした。
ロシアへの警戒心ゆえに、文学に本気で取り組む余裕がなかったとさえ言えるかもしれません。
しかし、ロシア語を学んだおかげで、ツルゲーネフを始めとするロシア文学とも出会うことができました。現代では、ツルゲーネフはドストエフスキーやトルストイに比べて地味な印象ですが、明治時代の文学者には非常に大きな影響を与えているんですね。今読んでも、ドストやトルストイに比べて、かなりわかりやすいので、海外のことをよく知らない明治初期の人たちも、ツルゲーネフなら、受容しやすかったのではないでしょうか。
*
ロシアへの警戒心からロシア語を学び、その過程でロシア文学にも親しんだ。多分、そのおかげだと思うのですが、『浮雲』は、黎明期の小説とは思えないほど、小説としての完成度が高いです。何というか、普通の恋愛小説なのです。「昔の小説だから、今の感覚とは違うよね」と感じるのではなく、「文体はちょっと古いけど、主人公の気持ちは現代の私たちと同じだな」とフラットに感じることができる。作者自身を彷彿とさせる、何かとネガティブな主人公と、新しい時代の思想に染まりつつも、現実が見えていない(まるで若い頃の私だ)ヒロイン。まわりの人たちもステレオタイプではあるのですが、今の私たちだから思うことで、江戸時代の戯作しか知らない当時の人たちには、非常に新鮮な人物像だったのではないでしょうか。
主人公がリストラされてしまい、それによって境遇が一気に変わるというのも、とても現代的なテーマです。
もちろん、内容だけでなく、国語の授業で習う「初の言文一致小説」という点も画期的なのですが、そうした記念碑的な作品として流してしまうにはもったいない、今読んでも面白い小説だと思いました。